真澄外伝 第九話「拾われぬ礼」
朝霧が、屋敷の裏門にまで這い寄っていた。
真澄は薄闇の中、施しの米俵を荷車に積んでいた。冬を越せぬ家がまた一軒出たと聞き、名も告げずに届ける手はずを、自ら整えたものである。下人の一人が「誰からの施しか、先方に伝えずともよいのか」と問うたが、真澄は首を横に振っただけであった。
その仕草に、我は覚えがあった。礼を期待せぬ手つき――いや、礼など初めから勘定に入れておらぬ動きであった。
荷車の車輪が軋み、霧を裂くように動き出す。
その軋みが、記憶の底へと我を誘った。
――
颪狼から幼子を救った一件は、瞬く間に村中の噂になった。
だが広まったのは、真澄への礼ではなかった。
「妖同士で縄張り争いをしていたのだろう」
村の寄合で、年嵩の男がそう言い切った。半妖の子が人を助けるはずがない、あれもまた妖の一種に過ぎぬというのが、大方の見立てであった。子を救われた母親は、初め礼を言いに来ようとしたが、亭主に袖を引かれて思いとどまった。
「あんな者に借りを作ったと知れれば、爪弾きにされる」
その一言で、話は終いになった。
老人はどこからかその噂を聞きつけ、帰り道、真澄にそれをそのまま伝えた。飾らぬ物言いは、老人らしいと言えばらしかったが、聞かされる側の胸には、じわりと重いものが沈んだ。
数日後、彼は水を汲みに村外れの井戸へ向かった。井戸端には数人の女たちが集まっていたが、その姿を認めるなり、口をつぐんで散っていった。一人だけ、あの日の母親らしき女が残り、こちらを見つめていた。何かを言いかけ、しかし喉の奥で止め、小さく頭を下げただけで、逃げるように去っていった。
その背を見送りながら、真澄の指先が、水桶の縁を強く握った。
助けたことを悔いているのではない。ただ、あの母親が頭を下げねばならなかった理由――誰かに見られれば咎められるという、その理不尽さに、腹の底が焼けるようであった。石を投げつけてやりたいという衝動が、拳の中で疼いた。
「憎しみで、人を見てはいけない」
母の声が、耳の奥で蘇った。
拳から力が抜けた。彼は桶を担ぎ直し、井戸端を後にした。憎むべきは、目の前の女ではない。ただ、そうさせている何か――名づけようのない大きなものであった。それが何かを、幼い真澄はまだ言葉にできなかった。
帰り道、後ろから小石が飛んできて、肩に当たった。振り返ると、悪童らしき数人が茂みの向こうへ逃げていく背中が見えた。声を上げる気力もなく、彼はただ石の当たった肩を一度だけさすり、また歩き出した。
人とは、これほどまでに愚かで、これほどまでに弱いものであるらしいと、幼心に刻まれた。それでも、憎むことだけはしなかった。
――
荷車が、朝霧の向こうへ消えていった。
礼を求めぬ施しの裏に、これほどの拒絶を潜り抜けてきた歳月があったとは。我はしばし、車輪の跡を見つめたまま動けずにいた。人の愚かさを幾度となく見せつけられてなお、施しの手を止めぬというのは、諦観ではなく、もはや意志と呼ぶべきものであろう。
真澄は戻ってくると、我の傍らに片膝をつき、土間の隅に落ちていた米粒を一つ拾い上げた。
「これしきの礼など、端から求めてはおらぬのでございます」
独り言のようなその一言に、我は尾を一度大きく揺らして応えた。
人とは、不思議なものだ。礼を言えぬ弱さを抱えながら、礼を求めぬ者によって、幾度となく救われておる。




