真澄外伝 第七話「影に成る夜」
廊下の暗がりに、真澄の姿が溶けるように消えた。
かと思えば、次の瞬間には数間先の柱の陰に立っている。足音一つ立てず、灯火の隙を縫うようにして移動する所作は、常の家令の動きではない。下人たちはそれを「音もなく歩むお方」と評していたが、我はその正体を知っている。
影走り(かげばしり)――影を媒介とした異能。
いつ、誰から授かったものか。真澄自身、その経緯を語ったことは一度もなかった。柱の陰に佇む彼の姿を見つめながら、我の内で水の理が疼いた。
床に落ちた影が、墨を流したように滲んでいく。
視界が、闇に呑まれた。
――
貸し狐の求めは、日を追うごとに図々しくなっていった。
祠の供物を運ぶだけでは飽き足らず、今度は村の蔵から炭俵を持ち出せと言う。断れば食い扶持を絶つとほのめかされ、真澄には応じるほかなかった。夜陰に紛れて蔵に近づき、俵を担いで戻る道すがら、彼の胸には重苦しいものが積もっていった。
ある晩、貸し狐は新たな頼み事を持ちかけた。
「隣村の神社から、御神体を運び出せ」
さすがに真澄は足を止めた。祠の供物や炭俵とは、意味合いが違う。それは人の信仰そのものを奪う行いだった。
「それは、できませぬ」
初めて口にした拒みであった。貸し狐の金色の目が、細く歪んだ。
「借りを踏み倒す気か。ならば、これまでの施しの代償、まとめて払ってもらおうか」
言葉と同時に、狐面の輪郭が揺らぎ、爪のような影が真澄の足元へ伸びた。逃げねばならぬと悟った時にはもう、影は彼の足首に絡みついていた。
もがいても解けぬ縛りに、息が浅くなった。母の言葉が脳裏をよぎったが、それすら振り払う余裕はなかった。
そこへ、しわがれた声が割り込んだ。
「食い扶持ごときで人の子を縛るとは、みっともないことよ」
現れたのは、継ぎだらけの衣を纏った一人の老人であった。姿は人のようでいて、足元に映るはずの姿が見当たらない。月明かりの下に立っているというのに、その輪郭だけが、周囲の闇に溶けて曖昧であった。
貸し狐は牙を剥いたが、彼が軽く手を振ると、その足首を縛っていた影が霧のように解けた。狐は不服そうに喉を鳴らしたが、それ以上は近づかず、闇の中へ退いていった。
「借りなど、返さねば済む話であろうに」
老人はそう呟き、真澄の顔を覗き込んだ。
「お前、生きる気はあるか」
真澄は答えられなかった。ただ、震える息を整えるので精一杯であった。
「答えられぬなら、答えを持つまで拾ってやろう」
老人はそれだけ言うと、踵を返して歩き出した。
真澄はその背を見つめた。振り返る場所は、もうなかった。震える足が、ひとりでにその後を追っていた。
――
老人の住処は、朽ちた社の床下であった。
雨露はしのげても、暖かさとは程遠い場所であった。それでも貸し狐に怯えて眠るよりは、いくらかましであった。彼は多くを語らず、ただ日々、身をひそめる術と、足音の消し方を教えた。教えというより、体で覚えさせる類のものであった。
「生き延びたければ、影になれ」
老人の口癖は、それだけであった。人の目にも、妖の目にも留まらぬ動き方。誰にも縛られず、誰にも見つからずに生きる術。真澄はそれを、貪るように吸収していった。
ある夜、影に紛れる稽古の合間、彼は問うた。
「あなたは、何者でございますか」
老人は答える代わりに、乾いた笑いを漏らした。
「人でもなく、妖でもなく、そのどちらでもある――そういう答えで、満足するかね」
はぐらかされたと分かっていても、それ以上は問えなかった。ただ、老人の目の奥に時折よぎる翳りだけが、真澄の胸に小さく引っかかっていた。この老人もまた、誰かに拾われることのなかった者なのかもしれぬと、幼いながらに察したからであった。
――
柱の陰から、真澄が音もなく歩み出た。
影走りの技を、あの老人はどこで、誰から得たものか。彼自身にも語らなかったであろうその出自を、我はまだ覗いてはいない。だが、いずれ知る日が来るのではないかという予感だけが、尾の先にざわりと残った。
彼はいつもと変わらぬ足取りで、我の傍らを通り過ぎていった。
「今宵は、良き月でございます」
それだけを言い残し、彼は廊下の向こうへと消えていった。影の中に紛れるでもなく、ただ静かに。
飢えと孤独の果てに拾われた技が、今では家令としての務めを支える力に変わっている。この男の歩みには、無駄になったものなど一つもないのかもしれぬと、我はそう思案した。




