↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【本編完結】平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
番外編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
188/235

真澄外伝 第六話「零れた恩」

米蔵の錠前が、何者かに静かにこじ開けられていた。


朝の見廻りでそれを見つけた下人が騒ぎ立て、屋敷中が一時ざわついた。真澄(ますみ)は蔵の前に片膝をつき、土に残った足跡を検分していたが、その目には、我が予想していたよりも遥かに冷ややかな色があった。腹を空かせた誰かの仕業であろうと、下人の一人が呑気に言う。真澄は答えず、ただ錠前の傷を指先でなぞっていた。


「食い扶持に困った者の手口でございます」


短く言い切ると、彼は立ち上がり、蔵の奥へと入っていった。その後ろ姿を見送りながら、我の内で何かが疼いた。あの指の動かし方――他人の窮状を、身に覚えのある手つきで読み解く仕草。


錠前の傷に、我は視線を落とした。


錆びた金具が、記憶の底へと沈んでいった。


――


饅頭を盗んで幾日か過ぎた頃、真澄は同じ市に戻っていた。


一度目は運が良かっただけだと、幼いなりに分かっていた。それでも他に道はなく、今度は乾物屋の軒先で干し魚に手を伸ばした。


指先が届く直前、太い腕に肩を掴まれた。


「この餓鬼、また来やがったな」


声には聞き覚えがあった。以前も睨まれたことのある、乾物屋の主であった。真澄は身をよじったが、大人の力にはかなわない。引き摺られるようにして市の中央まで連れ出され、人だかりの中に晒された。


「妖(あやかし)の子が盗人をしておるぞ」


誰かが叫んだ言葉が、瞬く間に広がった。指をさす者、唾を吐く者、目を逸らして通り過ぎる者――様々であったが、誰一人として庇う声は上げなかった。かつて志乃(しの)に助けられた者たちの姿も、その中にはあった。


主は真澄の頬を張り、懐から饅頭の欠片を引きずり出して地に叩きつけた。痛みよりも、その乾いた音の方が耳に残った。彼は膝をつき、額を土に擦りつけて詫びた。声は震えていたが、涙は流さなかった。


解放された後、彼は村の外れまで歩き、二度と村の中には近づかぬと決めた。


その夜から、彼は森の際で眠るようになった。


木の根元に背を預け、夜気に晒された体を丸める。着物一枚では凍えを防げず、歯の根が合わなかった。腹の虫は幾度も鳴き、渇いた喉には唾さえ湧かない。梟の声が遠く響くたび、闇がひときわ深まるように思われた。


もう、駄目かもしれない――脳裏に浮かんだその一言を、彼は誰に語ることもできぬまま、膝を抱えて夜を明かした。眠りは浅く、幾度も目が覚めた。次の日も、その次の日も、木の実と水だけで飢えを騙し騙し過ごした。


――


雨露をしのげる岩陰を見つけたのは、三日目のことであった。


痩せた体を丸めて眠ろうとしていたところへ、闇の中から声がかかった。


「腹が減っておろう」


姿を現したのは、狐の面のような顔つきをした小柄な妖であった。金色の目が、暗がりの中でも爛々と光っている。真澄が身構えると、その者は懐から干し飯の包みを取り出し、地面に置いた。


「取って食え。ただし――」


言葉を切り、狐面の者は喉の奥で笑うような音を立てた。


「借りは、いずれ返してもらう」


差し出された包みに伸ばしかけた指が、束の間止まった。


――憎しみで、人を見てはいけない。


母の声とは、また違う響きだった。信じよという教えでもない。それでも迷いは長くは続かず、飢えた腹がその逡巡を押し流した。


飢えには勝てなかった。彼は包みを受け取り、震える指で口に運んだ。相手はそれを満足げに眺め、名乗りもせぬまま姿を消した。


翌日から、その者は幾度となく現れるようになった。米を分け、時に火を熾す術を教え、代わりに小さな頼み事を寄越した。近隣の祠から供物を持ち出せ、村の井戸に妙な札を沈めよ――一つ一つは些細な用事に見えたが、断れば食い扶持を失う。真澄はただ従うほかなかった。


ある晩、供物を運んだ帰り道、狐面の者が彼の肩に前脚を乗せた。


「お前の血は、面白い匂いがする。人でも妖でもない――いや、それだけでもないな」


真澄は何も答えなかった。だが、金色の目に映る自分の姿を見た瞬間、腹の底に冷たいものが落ちた。この者は、自分を助けているのではない。ただ、都合の良い駒として使っているだけなのだと、幼いながらに悟った。


それでも、他に頼れる者はいなかった。


――


錠前の傷が、元の姿に戻った。


我は蔵の暗がりに立ち尽くしたまま、しばし動けずにいた。人にも妖にも利用され尽くした果てに、なお誰かを憎まずにいられる者があるとすれば、それはよほどの強さか、よほどの諦めかのいずれかであろう。真澄という男は、そのどちらでもって今の寡黙を作り上げたのか、我にはまだ判じかねた。


蔵から戻った彼が、我の傍らを通り過ぎながら小さく呟いた。


「この程度の傷ならば、造作もなきことでございます」


錠前のことを言っているのか、それとも別の何かを指しているのか。問い返す術を、我は持たぬ。


ただ、あの狐面の妖が纏っていた気配の残り香が、真澄自身の血の匂いとどこか根を同じくするもののように思えてならなかった。


【妖怪図鑑】


■貸し狐(かしぎつね)

【分類】人里妖怪・化生系

【危険度】★★☆☆☆(中)

【レア度】★★★☆☆(やや稀)

【出現場所】村外れの森、人の困窮に付け込みやすい場所


【特徴】

狐面を思わせる顔立ちを持つ小柄な妖。困窮した人間に近づき、食料や小さな助力を与える代わりに「借り」を作り、後になって都合の良い使い走りとして酷使する。表向きは親切だが、その実、相手の弱みに付け込むことに長けている。


【得意技】

・施し:食料や火の術を分け与え、相手の信を得る

・借りの縛り:一度受けた恩は、貸し狐の求めに応じるまで曖昧に相手を縛り続ける


【弱点】

・正面から借りを踏み倒されると、力を及ぼせなくなる

・恩を受けた本人が「借りを返す気がない」と明確に断じた場合、縛りは緩む


【生態】

群れず単独で行動する。人の弱みに敏感で、困窮した者を遠くからでも嗅ぎ分けるという。悪意そのもので動くというより、損得勘定で動く性質が強い。


【玄丸の評価】

「恩着せがましいだけの狐と侮るなかれ。あの手の輩は、恩を売ることそのものを生業としておる。厄介なのは、施しに嘘がないという点よ。だからこそ、断りきれぬ」


【遭遇時の対処法】

施しを受けた時点で、既に半ば縛られていると心得るべし。受け取る前に、対価の内容をはっきりと問い質すが賢明である。


【豆知識】

貸し借りの理を悪用する妖とされ、陰陽師の間では「利息妖」とも呼ばれることがある。人里の噂話には疎いはずの土地でも、なぜか困窮者の噂だけは早く伝わるという。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。