真澄外伝 第五話「残された灯」
忠義というものは、飢えの底からでも芽吹くのか。我はそう独りごちながら、廊下の隅で真澄の背を眺めていた。
灯明の油を注ぎ足す手つきが、いつになく丁寧であった。芯の位置を整え、皿の縁に垂れた雫を指先で拭う。ただそれだけの所作に、なぜか目を離せずにいた。
「何をそう見ておいでで」
問われて、我は尻尾の先だけを揺らした。答えるすべを持たぬ身の、せめてもの返答である。
真澄は小さく息を吐き、灯心をもう一度直した。
「昔は、これすら満足に持てぬ夜が続いたのでございます」
その一言だけを置いて、彼は行灯の火を見つめたまま黙り込んだ。理由を語る気配はない。だが我の内には、水の理がすでに疼き始めていた。この男の記憶を覗く許しなど得てはおらぬ。それでも、知りたいという欲は、猫の身になってなお消えぬ理の性であった。
炎に視線を重ねる。
灯が、闇ごと呑み込まれた。
――
目を開けたとき、そこは同じ家であった。同じ柱、同じ土間。だが、何かが決定的に欠けていた。
七つか八つの真澄が、莚の上で目を覚ます。隣に伸ばした手が、何にも触れない。それだけの動作を、幼子は幾度も繰り返した。
朝が来れば、いつもの通り咳の音が聞こえるはずだった。針を動かす乾いた響きも、名を呼ぶ低い声も。だが土間には、風の抜ける音しかない。
家の形は変わらぬのに、中身だけが空になっていた。
真澄は起き上がり、水瓶の蓋を開けた。底に近い水を柄杓で掬い、口に運ぶ。喉を鳴らして飲み干すと、腹の底が余計に冷えるのが分かった。米櫃の蓋にも手をかけたが、開ける前から重さで分かっている。もう幾日も、その中身は増えていない。
薪は拾える。水は汲める。だが、米だけはどうにもならなかった。七つの腕では、越えられぬ壁がそこにあった。
隣の垣根の向こうから、老いた女の声がした。以前、志乃が熱を出した子の手当てをしてやったという、あの老婆であった。
「坊……」
呼びかけながら、老婆は籠に入れた粟を差し出しかけ、途中で止めた。指先が震えている。真澄は黙って首を横に振り、受け取ろうとしなかった。だが老婆の目には、拒まれた安堵の色が滲んでいた。
「すまないねぇ。うちにも、養う口があるものだから」
言い訳のような響きに、悪意はなかった。ただ、恐れがあった。妖の血を引く子を助ければ、次はどんな厄が我が家に降りるか分からぬという、村の理屈である。老婆は志乃には恩を返せたが、その子には返せない。それだけの違いが、垣根一枚を隔てて横たわっていた。
真澄は頭を下げ、家へ戻った。怒りも恨みも、幼い顔には浮かばなかった。ただ、桶を提げる足取りが、少しだけ重くなっていた。
――
三日目の朝、市の外れに立っていた。
饅頭を蒸す湯気が、通りに甘い匂いを流している。真澄はその匂いに引き寄せられるように歩を進め、店先の籠の前で足を止めた。
主は奥で客と話し込み、こちらを見ていない。手を伸ばせば届く距離に、白く膨らんだ饅頭がある。
腹が鳴った。喉が渇いた。手が、ゆっくりと持ち上がる。
「憎しみで、人を見てはいけない」
母の声が、耳の奥で蘇った。だがそれは、盗むなという教えではなかったはずだ。真澄は自分にそう言い聞かせようとしたが、指先の震えは止まらなかった。
一つ。掴む。懐に入れる。
背を向けて歩き出した瞬間、心の臓が早鐘のように鳴った。振り返る勇気はない。ただ足だけが、市の雑踏をすり抜けていく。
人気のない路地に入り、懐から饅頭を取り出す。まだ温かい。齧りつく前に、彼の手が止まった。
脳裏を過ぎったのは、幼い頃、市で母に買ってもらった一つの饅頭であった。半分に割り、大きい方をこちらへ差し出す指先。「甘い物は、力を呼びますよ」――その一言だけが、耳の奥に残っていた。
盗んだことへの怖れではなかった。あの教えから、一歩だけ外れてしまったという、その事実の重みであった。志乃なら、この饅頭を口にしただろうか。答えは出ぬまま、それでも真澄は齧った。涙は流れなかった。ただ、噛みしめる音だけが、やけに大きく耳に響いた。
食べ終えた後、彼は懐に残った屑を払い、何事もなかったように歩き出した。だがその背には、それまでとは違う何かが纏わりついているように、我には見えた。
――
炎が、元の高さに戻る。灯明の芯は、変わらず静かに燃えていた。
真澄はまだ、火を見つめたままであった。
「あの日から、我は変わったのでございます」
短い一言に、多くを語らせるつもりはないらしい。彼はそれきり口を噤み、行灯の油皿を丁寧に元の位置へ戻した。
盗みを働くほどに追い詰められてなお、この男は誰かを憎むことを選ばなかったのか。我はそう思案しながら、尾の先で床を叩いた。忠義とは、生まれつき備わった性分ではなく、飢えの底で一度だけ踏み外し、それでも拾い直した歩みの果てにあるものらしい。
行灯の火は、今宵も揺らがずにいる。




