真澄外伝 第三話「軋む肩」
乾いた咳の音が、記憶の狭間に谺した。
まだ夢の縁にいるのか、それとも現に戻ったのか、我にはしばし判じがたかった。
真澄の声が降ってくる。
「顔色が優れぬようでござろう。」
答えぬまま、我は沈んでいく意識に身を委ねた。今度は、先よりも深く。
――
その家の朝は、以前より静かになっていた。
志乃の咳は、はじめの頃は季節の変わり目の些細なものに見えた。だが幾日も経つうちに、咳は朝だけでなく、昼にも夜にも顔を出すようになった。針を持つ手が、時折止まる。止まった手は、しばらく胸の辺りに置かれたままであった。
真澄は、それを見ていた。何も言わず、ただ見ていた。
ある朝、井戸端に向かおうとする志乃の前に、彼が桶を抱えて立った。
「わたしが汲む。」
志乃は止めようとした。だが真澄はすでに歩き出していた。重い桶を抱え、よろめきながらも運ぶその背に、志乃は何も言えず、ただ見送るしかなかった。
薪割りも、同じであった。斧を握るには、まだ手が小さすぎる。だが彼は毎朝、裏の木立へ向かい、拾い集めた枝を折っては、束ねて土間に積んだ。斧そのものには、まだ触れさせてもらえない。それでも、己にできる分だけを、毎日欠かさず積み続けた。
理屈で言えば、七つの童の腕力など知れている。その量など、大人の仕事には遠く及ばぬ。だが我の見立てでは、これは量の問題ではなかった。彼が積んでいたのは、ただの枝ではない。何か、もっと形のないものであった。
村を歩けば、視線がある。真澄は、その視線の意味を知っていた。
――あの子がしっかりしなければ、あの家はもたない。
誰かが言葉にしたわけではない。だが、そういう空気が、井戸端にも、道端にも、薄く漂っていた。真澄は、その空気を吸い込むたびに、自分の中の何かが硬く締まっていくのを感じていた。
理でもって己を律する術を、この童はまだ知らぬ。ゆえに、代わりに身体を動かすことで、その硬さをやり過ごしていたのだろう。我には、それがよく分かった。かつての我も、似たような真似をしたことがある。
ある日の帰り道、井戸端で水を汲んでいた女が、真澄に聞こえるように呟いた。
「病持ちの家の子に、あんまり近づかない方がいいよ。」
隣にいた別の女が、小さく笑った。
真澄は、桶を提げたまま、家までの道を無言で歩いた。志乃が出迎えると、真澄はぽつりと言った。
「あの人たち、嫌い。」
志乃は驚いた顔をしなかった。桶を受け取り、上がり框に置いてから、真澄の頭に手を置いた。
「あの人たちにも、怖いものがあるだけ。」
それだけであった。それ以上の説明はなかった。真澄は納得したふうでもなく、ただ黙って頷いた。
理としては、いかにも不十分な答えであった。憎しみに理由を与えず、ただ「怖いから」とだけ告げる。これでは、何の解決にもなっていない。我はそう分析した。だが同時に、この童の肩から力が抜けていくのを、確かに見た。理では割り切れぬ効き目というものが、言葉にはあるらしい。
その晩は、いつもより静かであった。志乃の咳は落ち着いていて、真澄は久方ぶりに、母の膝に頭を預けて眠った。
翌朝、それは起こった。
水を汲みに出ようとした真澄を、志乃が呼び止めた。今日は自分が行く、と。真澄が止める間もなく、志乃は桶を提げて土間を出た。
戻ってこない。
真澄が様子を見に出た時、志乃は井戸のそばに、膝をついていた。桶は転がり、水が土に染み込んでいく。志乃の手は、己の胸を押さえていた。顔からは、血の気が失せていた。
伸ばしかけた指先が、それを掴み損ねた。零れたものは、すでに土の色に変わり、二度と戻らなかった。
母に触れると、冷たかった。いつも針を動かしていたその指が、今は動かない。
積み上げてきた枝も、汲み続けた分も、この場では何の力も持たなかった。守れると信じていたものが、音もなく崩れる。真澄はそのことを、言葉にせぬまま悟った。
「かか様。」
真澄の声が、震えた。
駆け寄る足が、もつれた。彼の腕の中で、志乃はかろうじて意識を保っていたが、その息は浅く、速かった。
景色が、砕けるように途切れた。
――
戻った先で、真澄の目には、あの日と同じ翳りがあった。
我は、尾の先すら動かせなかった。
支えるということを、この男は、あの日から覚えたのか。




