真澄外伝 第一話「刃の記憶」
夜更けの庭に、血の匂いはしない。
白砂を踏む音すら立てず、影が動いた。次の刹那、庭木の陰から滲み出た小さな妖の姿は、輪郭を保つ間もなく掻き消える。残されたのは、地に落ちた影法師のような黒い染みが、薄れていく光景だけだ。
我は縁の下からその一部始終を眺めていた。尻尾の先を一度だけ揺らす。見事なものよ、と胸中でひとりごちる。
葛上真澄――藤原の家令にして、人ならぬ血を継ぐ者。今宵の一閃も、彼にとっては息をするのと変わらぬ所業なのだろう。剣も呪符も使わぬ。ただ影の中に身を溶かし、影の中から断つ。
「結界の綻びより紛れ込んだ小妖、この時期には毎年のことでござろう。」
濡れ縁に片膝をついたまま、真澄は空を見上げた。満月には遠いが、月は十分に明るい。
我は音もなく歩み寄り、彼の膝先に腰を下ろした。特に用があるわけではない。ただ、この男の"間合い"というものを、今一度測り直したくなっただけだ。
「姫様の眠りを妨げぬ程度の、造作もない仕事でございます。」
律儀に付け加える辺り、几帳面な性分は変わらぬらしい。ふむ、と我は喉の奥だけで応じた――もっとも、この程度の羽虫を退けるのに、彼ほどの者を使うのは些か贅沢が過ぎる。
そこまで考えて、我はふと妙な気配に気づいた。
真澄の影が、月光の下で妙に長い。長いというより、深い。庭木の落とすそれや我自身のそれとは明らかに質が異なる、澱んだ色をしている。理の眼で見れば、その底に古い記憶の澱らしきものが、幾重にも沈んでいるのが分かる。
我は理の階位について幾度となく考えてきたが、この男の内側にある歪みだけは、いまだに正確な形を掴めずにいた。
好奇心というものは、猫にとっても魔導王にとっても、抗いがたい業である。
我は瞳孔を細め、真澄の影の縁に前足を触れさせた。夢鏡を編む。本来ならば当人の許しを得るのが筋だが、生憎、我にそのような殊勝さは持ち合わせておらぬ。
それが、我を呑み込んだ。
――
気づけば、我は見知らぬ山あいの村を見下ろしていた。
藤原邸の庭とは違う、鄙びた匂いのする土地だ。竹林が風に鳴り、遠くで鶏が鳴いている。季節は夏の終わり――そんな気配がする。
村外れの小さな家の縁側に、幼子が座っていた。歳の頃は六つか七つ。膝を抱え、じっと地面を見つめている。その足元に落ちる影が、夕暮れの中で妙に濃い。
「真澄。」
家の中から呼ぶ声がする。若い女――母親だろう――が、盆に粟粥を載せて出てきた。名を志乃というらしいことが、記憶の端々から伝わってくる。
「お腹が空いたでしょう。さあ、お食べ。」
幼子は顔を上げ、こくりと頷く。まだ声変わり前の、頼りない仕草だ。当節の家令の姿からは、およそ想像もつかぬ。
母は隣に腰を下ろし、粥を掬っては器用に冷ましてやる。その横顔に、疲れの色はあれど、翳りはない。少なくとも、この時この場では。
「今日はね、井戸端でお千代さんに会ったの。真澄のこと、優しい子だねって。」
母の声は、いくらか力んで聞こえた。理の耳で聞けば分かる――その言葉は、我が子にというより、自分自身に言い聞かせているものだ。
幼子は答えず、ただ粥を口に運ぶ。器の底に映る己の影を、じっと見つめながら。
村の子供らの声が、遠くから聞こえてくる。笑い声だ。だが、その輪の中に、この子はいない。
我は理屈の獣として、幾つもの文明の興亡を見てきた。人が異物をどう扱うか、知らぬわけではない。しかし、この六つやそこらの子が、すでにそれを察していることには――我は珍しく、言葉を失った。
母が幼子の頭を撫でる。その手だけが、この子にとっての唯一の拠り所であるらしい。
「大丈夫。真澄には、わたしがいるから。」
垣根の向こうから、女たちの声が低く流れてきた。
「――やはり、あれは妖の子だ。」
母の背が、一瞬だけ止まった。それでも何事もなかったように椀を重ね、幼子へ笑みを向ける。真澄もまた、その笑みに頷いた。
――
影の底の景色が、不意に揺らいだ。我の意識が、月光の縁へと引き戻される。気づけば、濡れ縁の上、真澄のそれに触れたままの前足が、小さく震えていた。
「――妙な気配でございます。」
真澄が眉を寄せる。我は前足を静かに引き、何でもないというように尻尾を一度だけ振ってみせた。
だが、内心は穏やかでない。
あの母の声も、あの子の影の深さも、半妖という理屈だけでは説明のつかぬ手触りがした。
もう少し、視てみたい。
真澄には知られぬまま、我はそう決めた。
あの影は――人の記憶にしては、あまりにも深すぎた。




