番外編 第三十話「試し札の夜」
挿入時間軸:第6話と第7話の間(秋)
「猫が呪符を厭うか、それとも戯れに扱うか――確かめてみたいのです」
真名井実俊は懐から一枚の紙片を取り出し、真面目な顔でそう告げた。藤原真白は困り顔で眉を寄せ、我の方をちらりと見やる。
我は縁側で香箱座りのまま、片耳だけを彼の言葉へ傾けた。呪符とは、陰陽寮の見習いが懐に忍ばせるには些か大仰な代物である。まこと、青二才の好奇心とはかくも面倒なものか。
「猫又や式の類には反応すると聞きます。ただの猫ならば、何も起こらぬはず」
実俊はそう続けながら、紙片を我の鼻先へと差し出した。墨の香りに混じって、微かな理の残滓が漂う。稚拙な術式――五行のいずれにも属さぬ、いわば見よう見まねの模造品だ。反応するもしないも、こちらの気分次第というわけである。
我は片目を細め、しばし紙片を睨んだ。ここで大仰に暴れれば、この若造の疑いを深めるだけであろう。だが何の反応も示さねば、それはそれで詰まらぬ男だと侮られる。理の乱れとは、かくも人間くさい駆け引きを我に強いるものらしい。
結局、我は前足でそっと紙片を叩き落とし、興味なさげに欠伸をひとつ漏らした。
「あら、嫌がっているみたい」
真白がくすりと笑い、地に落ちた紙片を拾い上げる。指先が我の背をひと撫でし、その温もりに尻尾の先がわずかに揺れた。実俊は納得のいかぬ顔で紙片を拾い直し、今度は角度を変えて再び我へと近づける。
「もう一度。今のは驚いただけかもしれません」
――しつこい男よ。魔導王たる我を、その程度の紙切れで測ろうとは片腹痛い。
我は今度こそ動じぬよう、実俊の目をまっすぐに見返した。瞳孔を絞り、金色の光をわずかに湛える。陽眼とまではいかぬ、ただの威嚇の眼差しである。実俊は一瞬たじろぎ、しかしすぐに紙片を我の額へ触れさせた。
何も起こらぬ。当然だ。稚拙な理には、我が身の奥に眠る力など見抜けようはずもない。
「……やはり、ただの猫ですか」
彼が呟くように言い、紙片を懐へ戻す。その声にほんの僅か、落胆とも安堵ともつかぬ響きが混じっていた。真白は我を抱き上げ、彼へと向き直る。
「この子は賢い子ですもの。実俊様の呪符に驚かなかっただけかもしれませんわ」
「賢い、ですか」
彼は苦笑し、庭の方へ視線を逃がした。木々の梢が色づき始め、風に揺れる葉の音が縁側まで届く。真白の腕の中で、我は前足を折り畳み、彼女の袖に頬を寄せた。この温もりだけは、いかなる呪符にも測れぬものである。
「実俊様は、いつもこうして珍しい術をお持ちになるのですね」
「陰陽寮では日々、新しい式を学びますから。……もっとも、猫相手に使う機会は滅多にありませんが」
彼女がまた笑う。その笑い声が心地よく、我は喉の奥でひとつ鳴らした。実俊がこちらへ視線を戻し、我と目が合う。彼の瞳の奥に、単なる好奇心以上の何かが揺れているのを、我は見逃さなかった。彼女を挟んで向き合う形になっていたことに、若造自身もようやく気づいたらしい。
「……真白殿。少し、お伺いしたいことが」
実俊が改まった調子で口を開きかけた、その瞬間である。我は彼女の腕の中でわずかに身を捩り、前足を伸ばして実俊の懐――先ほどの紙片が仕舞われた辺りへ、爪を軽く引っ掛けた。
「わ、これ、玄丸?」
紙片が再び地へ落ち、実俊が慌ててそれを拾いに屈む。彼女が「あら、いけない子ね」と我の頭を軽く小突くが、口元は緩んだままだ。改まった話は、それきり庭の風に流されて途切れた。
理屈を重んじる若造の企みなど、この我にかかれば掌の上のこと。もっとも、なぜ自らそのような真似をしたのか、我自身にもまだ明確な理由は見えぬ。ただ、彼女の腕の中の静けさを、あの若造の言葉ごときに乱されたくはなかった――それだけは確かである。
彼は結局、紙片を懐に仕舞い直したまま、それ以上何も言わなかった。夕刻の光が庭木の影を長く伸ばし、彼はやがて「また参ります」とだけ告げて帰っていった。真白は我を抱いたまま、しばらくその背を見送っていた。
「今日の実俊様、少し変だったわね」
真白がそう漏らし、我の顎を指先でくすぐる。我は目を細め、彼女の膝の上で丸くなった。若造が何を言いかけたのか、我には察しがついている。だが、それを告げてやる義理も余裕も、今の我にはない。
庭の隅で、古狸の気配が微かに動いた。今宵はまだ、縄張り争いを仕掛けてくるつもりはないらしい。我は片耳をそちらへ向けたまま、深く息を吐いた。




