番外編 第二十九話「散り際の式占い」
挿入時間軸:第69話と70話の間(晩春)
砂利を踏む足音が、いつもより慎重だった。
夜更けの庭に忍び込んできたのは、真名井実俊(まない の さねとし)だった。灯りも持たず、月明かりだけを頼りに歩を進めている。昼間、真白と共に眺めた夜桜の下へ、一人で戻ってきたらしい。
我は縁側の陰から、その様子をしばらく眺めていた。
散り残った桜が、風もないのに一片、また一片と地に落ちていく。実俊はその下に立ち止まり、懐から式盤を取り出した。月光を頼りに卦を立てるつもりらしいが、手つきがどこか落ち着かない。
「……こんな刻限に、詮無いことだな」
呟きは誰に向けたものでもなかった。だが我の気配に気づいたのか、実俊はこちらへ視線を寄越した。
「お前もこの庭が気に入ったか。それとも、また私を試しに来たか」
答える術のない我は、尾の先を軽く振っただけだった。実俊は小さく息を吐き、式盤の上で算木を動かし始める。幾度か同じ操作を繰り返しては、首を傾げていた。
「卦が定まらぬ。占う者の心が乱れていては、当然の理か」
理屈を重んじる者らしい台詞だった。だが、その理屈こそが今の彼を縛っているようにも見えた。我は桜の根方へ歩を進め、実俊の傍らに腰を下ろした。
「真白殿は、今頃もう休んでおられよう。あの方は……」
言いかけて、実俊は口を噤んだ。式盤に落ちた視線が、しばらく動かない。理を尽くして人を救う――その志を胸に抱きながら、彼が測りかねているものが何であるか、我には察しがついていた。だが口にする権利は、猫の身にはない。
「陰陽の理では、人の心までは占えぬ。星の巡りも、卦の出方も、所詮は外側をなぞるに過ぎぬのだと、近頃つくづく思い知る」
散る花びらの一枚が、式盤の上に落ちた。実俊はそれを払いのけようとして、手を止めた。しばらくそのままにしておくことにしたらしい。
「情けない話だ。人ならぬお前に、こんな繰り言を聞かせるとはな」
自嘲めいた響きに、我はただ瞬きで応じた。理を求める者が、理では測れぬものに突き当たる――その姿は、かつて異世界で理の頂に立ち、それでも世界を救えなかった己自身と、どこか重なって見えた。慰めの言葉など、我にはやはり紡げない。ただ傍らに在ることしかできぬ身の上は、いつもと変わらなかった。
夜風が一陣、庭を渡った。桜の枝が揺れ、花びらが一斉に舞い散る。実俊はその光景をしばらく見上げていたが、やがて式盤を懐に戻した。
「今宵は、占うことすら及ばぬらしい」
立ち上がった実俊は、我を見下ろし、ふっと口元を緩めた。
「猫相手に弱音を吐くとは、我ながら見苦しい。だが……少しは、気が晴れた」
理屈では説明のつかぬ効能である。実俊はそれ以上を語らず、踵を返して母屋の方角へ歩き出した。桜の下に残されたのは、無数の花びらと、我一匹だけだった。
まだ定まらぬ卦のように、彼の想いもまた、答えを得るまでにはしばらくの時を要するのであろう。散った花びらの行方を目で追いながら、我はそう考えていた。




