番外編 第二十八話「油舐り騒動」
挿入時間軸:第2話と3話の間(秋)
ぴちゃ、ぴちゃ、と。
夜更けの闇に、小さな音が響いていた。舌先で何かを掬うような、湿った律動。行灯の油を嘗める音だと気づくまで、さほど間はかからなかった。
まだこの屋敷に来て日の浅い我にとって、猫の聴覚は思いのほか鋭敏な代物だった。異世界の理を扱っていた頃には気にも留めなかった些事――虫の羽音、床板の軋み、そして今宵のこの湿った音――が、やたらと耳につく。
藤原真白(ふじわら の ましろ)は隣の褥ですでに寝入っている。起こすほどの用でもあるまいと判断し、我は一人、音の出所を探ることにした。
灯台の陰、油皿の縁に、小さな影がへばりついていた。丈は手のひらほど。ぬめりを帯びた灰色の肌に、丸い目玉が二つ、行灯の火を映して光っている。長い舌を油面に伸ばし、一心に嘗め続けている様は、なるほど滑稽と言うほかない。
我が身を屈めて近づくと、影はびくりと震え、油皿ごと逃げ出そうとした。だが逃げ場は狭い。追い詰められた末、その者は皿を抱えたまま、板間の隅で丸くなった。
翌朝、真白が油の減りように気づいた。
「あら、また少ないわ。この頃、よく減るのよね」
女房の一人が「鼠でしょう」と応じるのを、我は尾を軽く振って聞き流した。鼠にしては、齧った跡が一つもない。皿の油だけが、綺麗に舐め取られている。
その夜も、同じ音がした。
――ぴちゃ、ぴちゃ。
今度は隠れる間もなく、影と目が合った。逃げるより先に、その者は油皿を抱えたまま、我にじっと見つめ返してきたのである。臆病というより、どこか開き直った態度だった。
理屈で言えば、この者は火の気と油に引き寄せられる下位の妖であろう。害意はなく、ただ食い意地が張っているだけと見える。我が示す威嚇めいた姿勢にも、大して動じる様子がない。むしろ、皿を奪われまいと抱え込む仕草が、いっそ図太い。
膠着したまま、しばらくが過ぎた。根負けしたのは我の方だった。異世界の魔導王が、行灯の油を巡って小妖と睨み合う――この状況を、かつての己が知れば嗤うに違いない。だが猫の身に宿る本能は、思いのほか諦めが早い。我は一つ息を吐き、その場を引き上げることにした。
数日後、真白がある提案をした。
「油、少しくらいなら分けてあげたらどうかしら。それで済むなら、その方が楽よね」
理には適っていない。だが、争いを避けるという一点においては、存外に賢明な判断だった。以来、厨の隅に古い欠け皿が一つ増えた。日暮れになると、そこへ少量の油が注がれる習わしができた。
影の者――油舐り(あぶらねぶり)という古い呼び名があるらしいと、後に女房の一人が言っていた――は、それからというもの、決まって欠け皿の油だけを嘗めるようになった。灯台の油に手を出すことは、二度となかった。
夜、庭先を歩く我の耳に、時折あの音が届く。
――ぴちゃ、ぴちゃ。
慣れというのは奇妙なものだ。今ではその律動が、さほど耳障りに思えなくなっている自分に、我は少しばかり驚いていた。
【妖怪図鑑】
■油舐り(あぶらねぶり)
【分類】火霊系・小妖
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★★☆☆(やや珍しい)
【出現場所】灯台や行灯のある屋内、油を蓄える厨
【特徴】
灰色のぬめった肌に丸い目玉を持つ小妖。灯火に用いる油の香りに強く引き寄せられ、隙を見ては舐め取ってしまう性分を持つ。人に対して害意はなく、争いを好まぬ性格だが、食い意地の強さゆえに一度居着くと居座り続ける。
【得意技】
・隠形:灯台の陰に身を潜め、気配を絶つ
・長舌:油皿の縁から離れずに油だけを嘗め取る技
【弱点】
・光量の強い場所では動きが鈍る
・与えられた分だけで満足する律儀さがあり、過度な欲は見せない
【生態】
単独で行動し、住み着いた家の油の匂いを覚えると、そこから離れようとしない。荒事を好まず、追い詰められても攻撃はせず、ただ抱え込むように守る仕草を見せる。専用の油皿を与えられると、以後はそれ以外に手を出さなくなる律儀な一面もある。
【玄丸の評価】
「灯台の油を狙う小妖と知ったときは、いささか拍子抜けしたものだ。争う気概もなく、ただ皿を抱え込むだけの図太さには、いっそ感心させられる。分け与えれば大人しくなるというのなら、これほど扱いやすい相手もそうはおるまい」
【遭遇時の対処法】
専用の油皿を与えるのが最も穏便な解決策。無理に追い払っても、別の隙間から現れることが多く、根本的な解決にはならない。




