番外編 第二十七話「丑三つの結界符」
挿入時間軸:第43話と44話の間(冬〜早春)
丑三つ時、屋敷の気配はことごとく眠りに沈む。
満月の儀式を数日後に控えたその夜、我だけが縁の下から庭を見張っていた。口無し女を鎮めるための満月の儀式に向け、屋敷はここ数日、常にない緊張を纏っている。女房たちの寝息すら、いつもより浅く硬い。
庭の奥、白砂の際に人影があった。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が、片膝をついて地に何かを刻んでいる。手にした墨筆の先から、結界符が一枚、また一枚と生み出されていく。人ならぬ速さで文字を連ねるその手つきに、我は改めて彼の正体を思い知らされた。
理屈で言えば、これは土の理に連なる技法であろう。だが人の陰陽術とも、我が知る異世界の魔導とも異なる、独特の律動があった。半妖の血に根差した、境界を渡る者だけが持つ理である。
真澄がふと筆を止め、こちらへ視線を向けた。
「夜更けの見廻り、猫殿にしては殊勝でござろう」
皮肉とも労いともつかぬ声だった。我は答える代わりに、白砂の上を一歩、彼の傍らへ進んだ。
「儀式まで、あと三日でございます。結界符は、屋敷の四方に埋める所存でございます」
言葉を切り、真澄はまた墨筆を動かし始める。その横顔には、疲労の色が滲んでいた。人であれば、とうに休んでいる頃合いであろう。
我はしばらく黙ってその作業を眺めていた。妖でありながら人に仕え、人のために理を尽くす。境の上に立つその在り方は、猫の身に転生した魔導王――我自身の立場とも、どこか響き合うものがある。理を操る者は、いずれ理に縛られる。それだけは、種を問わぬ道理であるらしかった。
「猫殿は、何を思って見ておられる」
不意に問われ、我は視線を逸らさなかった。答える言葉は持たぬが、目を細めることで応じた。真澄はそれ以上追及せず、小さく息を吐いた。
「詮索は野暮でござろう。我もまた、多くを語らぬ性分ゆえ」
結界符の一枚が、風もないのに宙で揺れた。真澄の指先から放たれた気が、白砂の上に細い筋を描き、地中へ沈んでいく。目に見えぬ律動が、屋敷の四隅を巡っていくのが分かった。
明け方近く、真名井実俊(まない の さねとし)が資料を携えて庭先に現れた。徹夜で式占いを続けていたのだろう、目の下に隈が浮いている。
「真澄殿、こちらの吉方位も併せて頼みたい。儀式の日取りに関わる」
「承知いたしました。方位の件、明朝までに調えるでございます」
二人のやり取りは短く、無駄がない。理を求める者同士、互いの領分を侵さぬまま、必要な言葉だけを交わしていく。その様を眺めながら、我は改めて思った。この屋敷に集う者たちは、それぞれ異なる理を抱えながら、一つの目的へ向かって縒り合わされている。
空が白み始める頃、真澄はようやく墨筆を置いた。四方に埋められた結界符が、朝靄の中でかすかに気を放っている。
「これにて、支度は完了でございます」
疲れを滲ませながらも、その声には確かな充足があった。我は彼の足元に近寄り、額を軽く擦りつけた。労いの意を込めたつもりだったが、真澄は少し驚いた様子で我を見下ろし、それから小さく笑った。滅多に見せぬ表情だった。
「猫殿にまで労われるとは、我も焼きが回ったでござろう」
そう呟くと、真澄はそのまま身を翻し、母屋の方角へ影のように消えていった。
東の空が、ようやく明るみ始めている。庭に残された結界符の気配だけが、満月の夜まで、屋敷を静かに守り続けるはずだった。




