番外編 第二十五話「褥の秋」
挿入時間軸:第10話と11話の間(晩秋)
廊下を駆ける足音で、我は目を覚ました。
夜明け前の薄闇に、女房たちの声が重なる。慌ただしい響きは、いつもの朝のものとは違う。庭へ下りる戸口の隙間から様子を窺うと、一人の下女が薬箱を抱えて母屋の奥へ向かっていくのが見えた。
藤原真白(ふじわら の ましろ)の母が、明け方に眩暈を訴えて臥せったという。
我が対の屋へ駆けつけたとき、彼女はすでに廊下に膝をつき、母の褥の方角をじっと見つめていた。灯りに照らされた横顔は、常の柔らかさを失っている。声をかける術のない我は、代わりにその裾へ体を寄せた。
「玄丸……」
名を呼ばれても、答えられるのは尾の先の動きだけだ。彼女は膝の上に我を抱き上げ、しばらくそのまま動かなかった。
昼過ぎ、医師が下がった後の廊下で、真名井実俊(まない の さねとし)が姿を見せた。手には薬草の包みと、紙縒りで結んだ小さな守り札を提げている。
「案じて来た。眩暈だけで、命に関わる容態ではないと聞いたが」
「実俊様……ありがとう」
「礼はいい。これは陰陽寮に伝わる鎮静の香だ。焚けば、多少は休まりやすくなる」
理屈で言えば、香に含まれる薬草の性質が呼吸を通じて臓腑に働きかけるだけの話であろう。だが真白の頬に、わずかながら色が戻ったのは事実だった。実俊の差し出す物には、いつも理と情の両方が同じ分だけ込められている。その不器用な釣り合いを、我は皮肉る気になれなかった。
夕刻、家令の葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が廊下の角に控えていた。影のように音もなく現れる、いつもの気配である。
「母君の御容態、ひとまずは平静でございます。今宵は早めのご休息が肝要でございます」
「そうね……そうする」
答える真白の声は、いつもより小さい。真澄はそれ以上を語らず、一礼して闇の中へ退がっていった。
夜、彼女の褥の傍らに、我は丸くなった。灯りを落とした部屋の中、衣擦れの音が幾度も繰り返される。眠れずにいる証だった。
「わたし、母上のこと……ずっと、どこかで覚悟していたのかもしれない」
呟きは、誰に向けたものでもない。天井の暗がりに溶けていく言葉を、我はただ聞いていた。答えを持たぬ身であることが、これほど歯痒く思えたことはない。
理を尽くせば、病の因果はいずれ解き明かせよう。だが、目の前で震える指先を温める術は、いかなる理にも見当たらなかった。
我にできるのは、ただ傍らに在ることだけだ。喉の奥を低く鳴らし、風の理を、ごく浅く操る。眠りを誘う穏やかな揺らぎを、褥の周りにわだかまらせる。木の理に連なる、ささやかな作用に過ぎない。
真白の呼吸が、少しずつ間遠になっていく。指先が我の毛並みに沈み、力を失っていくのが分かった。
明け方近く、母屋の方角から届いていた薬湯の匂いが、ようやく途切れた。庭先で鳴く鳥の声だけが、いつも通りの調子で朝を告げている。
真白はまだ、眠りの中にいる。その寝顔を見つめながら、我は考えていた。この穏やかな朝がいつまで続くのか、我に測る術はない。ただ、続いてほしいと願う気持ちだけが、理では割り切れぬ形で胸の奥にわだかまっていた。
廊下の向こうで、実俊の残した香の匂いが、まだかすかに漂っている。




