番外編 第二十三話「野分の宵」
挿入時間軸:第12話と13話の間(秋)
空の色が、常とは違う。
昼過ぎから漂う雲は妙に低く、灰を溶かしたような重さで西の稜線に張り付いている。縁側に丸まっていた我は、その色合いだけで多くを察した。土の理が、微かに軋む。木々の梢が、まだ風もないのに落ち着かぬ様子で揺れている。
藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁に出てきて、同じ空を見上げた。
「今日は、庭の花が妙に俯いているのね」
言われて見れば、白菊の首がいくつも垂れている。理由を語る術は我にない。ただ尾を一度、地の理に沿って軽く払った。真白はそれだけで何かを汲み取ったのか、眉を寄せて西の空をもう一度見た。
夕刻前、真名井実俊(まない の さねとし)が慌ただしく訪れた。烏帽子の紐が斜めに緩んでいる。走ってきたと知れる。
「真白殿。式占いに、良からぬ卦が出た。今宵から明朝にかけて、野分が都を通る」
「野分……」
「陰陽寮の見立てでは、さほど大きくはないとの話だが、油断はできぬ。庭木や物干し、簀子の物を早めに片付けたほうがいい」
真白の傍らに、実俊が一歩近づく。我はその間合いをさりげなく詰め、二人の裾の隙間に体を割り込ませた。理屈で言えば無意味な行為であるが、猫の本能というものは時に理を超える。実俊が我を一瞥し、小さく息を吐いた。
「相変わらず、この猫は」
言いかけて、実俊は言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ様子だった。真白は気づかぬ振りをして、庭へと下りていく。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が現れたのは、それからすぐだった。影の中から溶けるように姿を現す、いつもの所作である。
「野分の兆し、すでに厨の者へ知らせるべく参ったところでございます。竹垣の弱き箇所も、我が手にて正すつもりでございます」
「頼もしいな。土蔵の戸締りも頼めるか」
「承知いたしました。あちらは風が抜けやすき造りゆえ、内より支えを組むが確かでござろう」
真澄の語る声は低く、波のように静かだ。指示を受けた下人たちが動き出す中、我もまた庭の一角へ歩を進めた。植木鉢の一つが、置き場を誤っている。強い風が来れば真っ先に倒れる位置だ。
前足でそれを押し、わずかに向きを変える。土の理を、ごく浅く働かせた。地面との噛み合わせを整えるだけの、微弱な作用である。異世界の理論で言えば波動の起点を定め、意志が方向を与え、現象として形を結ぶ――その三段の過程を、猫の肉体は誰に気取られることもなく、瞬きの間に済ませてしまう。
日が沈む頃には、風はすでに唸りを上げ始めていた。妻戸が軋み、簀子の上を木の葉が転がっていく。真白は自室で灯りを絶やさぬよう油皿を整えながら、時折外の音に肩を強張らせている。
「今夜は、眠れそうにないわ」
独り言のように零したその声に、我は答える術を持たない。代わりに膝へ上がり、丸くなった。柔らかな重みを乗せることが、今できる唯一の答えだった。
夜半、風の音が一段と激しくなった。板戸の隙間から吹き込む冷気に、灯りが揺れる。真白が身を起こしかけたとき、廊下の向こうで物音がした。実俊が濡れた狩衣のまま駆けつけたのだ。
「裏手の垣が一部倒れた。真澄殿が今、直しにかかっている。そなたはこちらにいてくれ」
「実俊様も、お怪我はない?」
「この程度、なんでもない」
強がる声の端が、わずかに掠れている。我はその足元に近寄り、爪先に額を擦りつけた。労いのつもりだったが、実俊は怪訝そうに我を見下ろすだけだった。
「……猫にまで気遣われるとは、情けない話だな」
自嘲めいた呟きに、真白が小さく笑った。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
夜が更けるにつれ、風の勢いは次第に衰えていった。明け方近く、雨戸の隙間から差し込む光は、昨日までとは違う澄んだ色をしていた。
庭に出ると、倒れた竹垣はすでに真澂の手で立て直されていた。散らばった木の葉と折れた小枝が、野分の名残として地面を覆っている。植木鉢は、我が押しておいた位置のまま、無事に立っていた。
真白がそれを見つけて、目を丸くした。
「あら。これ、倒れなかったのね」
視線が我に向く。答える言葉はないが、尾の先を一度立てて応じた。実俊が近づいてきて、鉢の位置と地面の跡を交互に見比べている。
「妙だな。この置き方は、風の抜ける向きを考えねば、まずできぬ」
「難しいことは、わたしにはわからないけれど」
真白が我を抱き上げ、頬を寄せる。濡れた土の匂いが、まだ庭に残っていた。
実俊は何か言いかけて、結局は口を噤んだ。問い質す言葉を選びかねている顔だった。その視線だけが、しばらく我の背から離れなかった。




