番外編 第二十二話「境の軋み」
挿入時間軸:第111話と第112話の間(秋)
焦げたような匂いが、風の隙間に混じっている。木の葉が焼けたのとも違う、もっと乾いた、理の擦り切れるような匂いだ。夜番の途中、我はその気配に足を止めた。
界境の綻びが囁かれるようになってより、幾夜が過ぎたか。都のあちこちで小さな異変が続き、陰陽寮の者たちの顔つきも険しさを増している。今宵はこれまでのどれよりも濃い。
庭を巡り、匂いの出所を探る。築地塀の際まで来たところで、真名井実俊の姿があった。手には呪符の束を提げ、地面に何かを検分している。
「お前も気づいたか。この辺りだけ、気の流れが澱んでいる」
実俊がしゃがみ込み、指先で土に触れる。乾いた砂が、さらさらと崩れて落ちた。
「陰陽寮でも、界境の綻びが広がっていると見ている。今のところ小さな漏れに過ぎぬが、いずれ大きく開くやもしれぬと、上つ方は案じておられる」
理屈の上では、我にも察せられることだった。五行の均衡が崩れれば、境というものは薄くなる。薄くなった境からは、あるべきでないものが滲み出す。かつて永劫炉の残滓が形をなしたのも、同じ理屈の延長にあった。
「案ずるな、とは言えぬ状況だ。だが、屋敷の結界はまだ保たれている。真澄殿の手も入っているゆえ、当面は」
その名を口にした途端、庭の暗がりから低い声が返った。
「呼ばれたようでございます」
葛上真澄が、音もなく現れる。影が塀の際に沿って長く伸びていた。
「境の軋みは、我も感じているのでございます。屋敷の結界には、今しばらく余裕がござろう。されど、根を張る前に断つべきでございます」
真澄の声に、いつもの淡々とした調子とは違う、微かな張りがあった。理由を問うほどの猶予はない。三者、しばし黙したまま、乾いた匂いの薄れていく先を見つめた。
廊下の奥から、灯を手にした藤原真白が姿を見せた。夜更けに庭先へ出るのは珍しい。
「みなさん、こんな刻限に。何か、あったのですか」
問いに、実俊が言葉を選ぶように口を開きかけ、結局は当たり障りのないことしか言わなかった。真白の目には、それでも何かを感じ取ったらしい翳りが差す。
「近頃、都の噂を聞くたび、胸騒ぎがするの。うまく言えないけれど」
漠然とした不安を、真白は誰に問うでもなく口にした。答えを求めているのではなく、ただ言葉にして手放したいだけのようにも見えた。我はその足元に寄り、身をすり寄せる。理屈では慰めにならぬと知りながら、他にできることもない。
「姫、夜気は冷えるのでございます。お戻りを」
真澄が静かに促す。真白は頷き、名残惜しそうに庭を一度見渡してから、廊下の奥へと戻っていった。
その背が見えなくなってから、実俊が息を吐いた。
「あの方には、まだ多くを話せぬ。話せば、案じさせるだけだ」
隠すことが正しいのか、我には判じかねる。だが、今この場でその是非を論じたところで、境の綻びが塞がるわけでもない。
真澄が塀際に片膝をつき、印を結び直す。乾いた匂いが、わずかに薄れていくのが分かった。焼け石に水程度の処置に過ぎぬとしても、何もせぬよりはましだった。
夜はまだ長い。庭に満ちるその気配の奥に、何が潜んでいるのかを、我たちはまだ知らない。




