番外編 第二十一話「袖引き小僧の悪戯」
挿入時間軸:第62話と第63話の間(春)
くい、と誰かが袖を引く。それも一度ではない。庭を歩く藤原真白の袖が、見えぬ手に幾度も引かれているのを、我は縁側から眺めていた。
「あら、また」
真白は袖を押さえ、辺りを見回す。だが庭には風に揺れる桜の枝があるばかりで、それらしき姿はどこにもない。
三度目に袂が引かれた時、彼女は困ったように笑い、廊下へと戻っていった。残されたその場に、我はゆるりと歩み出る。理屈に合わぬ引っ張り方だった。風のいたずらにしては、動きに妙な間があった。
厨の方から、粉のついた足取りで小さな足音が近づいてきた。
「くろまろさま、庭に何かいるよ! わらべ、さっき見たもの」
指差す先、桜の根方に、小さな影がひとつ縮こまっている。人にはほど遠い背丈で、着物の裾を模したような布切れを纏い、長い袖のようなものだけが不釣り合いに大きい。
我が近づくと、その子はびくりと震え、大きな袂で顔を隠した。逃げる素振りはない。ただ、見られることそのものに怯えているふうだった。
その子が屈み込み、覗き込む。
「隠れなくていいのに。わらべたち、怒ってないよ」
袖の隙間から、小さな目がひとつ覗いた。恐る恐るというふうに、袖がわずかに下がる。現れたのは、丸い顔に不釣り合いなほど大きな二つの目を持つ、幼子のような姿だった。
理を凝らして見るに、この者からは害意も邪気も感じられぬ。ただ人恋しさだけが、纏う気配の中心にあるようだった。それを引くのも、本人にとっては挨拶か、あるいは戯れの誘いのつもりであったらしい。
「もしかして、遊んでほしかったの?」
わらべの問いに、影がこくりと頷く。だがすぐに恥じ入るように、また袖で顔を隠してしまった。
我は前脚を伸ばし、垂れた袂の端をそっと押さえた。逃げるでない、というだけの意である。相手がびくりとしたが、それ以上は動かない。
しばらくして、真白が戻ってきた。庭の様子を見て、目を丸くする。
「まあ……あなたが、袖を引いていたのね」
影は真白の声に反応し、また身を縮めた。だが真白が膝をつき、目線を合わせると、少しずつ力が緩んでいく。
「驚かせてしまってごめんなさい。今度からは、引っ張らなくても声をかけてくれたら分かるわ」
言葉が通じているのかは定かでない。それでも影は、大きな目でじっと真白を見つめ、やがて小さく頷いたように見えた。
その子が手を叩いて喜ぶ。
「わらべと一緒に遊ぼう! 厨の隅においで、おうめさまにお菓子もらってあげる」
菓子の一言に、影の動きがわずかに速くなった気がする。その子の後を追うように、ぴょこぴょこと跳ねながら厨の方へ消えていった。
残された庭で、真白が袖を撫でながら小さく笑う。
「あの子、寂しかったのかしら」
答える術はないが、我にも似た覚えがある。声を持たぬ身で誰かに構ってほしいと願う気持ちなど、理屈を並べずとも分かるものだ。
桜の花びらが一枚、風に流れて真白の肩に落ちた。それを払う真白の手の動きを、我はただ眺めていた。厨の方角から、わらべの笑い声が風に乗って聞こえてくる。
【妖怪図鑑】
■袖引き小僧
【分類】人里妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★★☆☆(やや稀)
【出現場所】庭先、往来、人の行き交う場所の物陰
【特徴】
幼子ほどの背丈で、不釣り合いなほど大きな袖を持つ妖怪。人の袖や裾をそっと引いて気を引くが、姿を見られると恥じ入って隠れてしまう。悪さをする意志はなく、単に人と関わりたいという気持ちが強い性質とされる。
【得意技】
・袖引き:気配を悟らせず、通りすがりの者の袖や裾を引く
・気配隠れ:見られると大きな袖で顔を隠し、姿を朧化させる
【弱点】
・人一倍臆病で、強い視線や大声を向けられると動けなくなる
・優しく声をかけられると、途端に懐きやすい
【生態】
人の多い場所を好み、特に子供や心優しい者の周りに現れやすいとされる。悪戯といっても実害はなく、構ってもらえると大人しくなる。菓子や遊び相手を好む、素朴な性質を持つ。
【玄丸の評価】
「他愛ない輩よ。袖を引く程度の悪戯に目くじらを立てるほど、我も狭量ではない。声を持たぬ身に構ってほしいと願う気持ちは、我にも覚えがある。わらべに懐いたようだが、あれも案外、似た者同士やもしれぬ」
【遭遇時の対処法】
驚かず、優しく声をかけてやるのが最善。無視をすると悲しげに離れていくが、追い払う必要のあるような害はない。菓子を与えると懐きやすい。
【豆知識】
各地の民話に似た伝承が伝わり、地方によっては「袖引き狐」「袖もぎ様」など呼び名が異なる場合もある。多くは人恋しさから起こる悪戯とされ、危険視されることは少ない。




