番外編 第二十話「言えぬ名を胸に」
挿入時間軸:第96話と第97話の間(初夏)
猫であるということは、つまり、声を持たぬということだ。理を極め、万象を統べたと自負した身であっても、この事実だけは覆せぬ。
夜半、雨脚が強まってきた。軒先を打つ音が絶えず続き、庭の紫陽花が重たげに首を垂れている。我は縁側の隅に丸くなり、その音を聞くともなしに聞いていた。
自らの想いに名を与えてより、幾日が過ぎたか。理の乱れとして皮肉に包み、見て見ぬふりをしてきたものに、ようやく形を与えた夜のことを、我はまだはっきりと覚えている。あれから世界の見え方が変わったわけではない。ただ、胸の奥に一つ、灯りがともったような具合になっただけだ。
灯りは、しかし出口を持たぬ。
真白に言葉を返せぬのは今に始まったことではない。だが以前は、それを制約として受け止めるだけで済んでいた。今は違う。伝えたい言葉があるという事実そのものが、猫の身という枷を、以前より重く感じさせる。
戸を叩く雫の合間に、廊下を渡る足音がした。灯を手にした彼女が、こちらへ歩いてくる。
「眠れなくて。あなたも、雨の音で起きてしまったの?」
問いに答える術はない。ただ尻尾で板を軽く叩き、応じたふりをする。真白は縁側に腰を下ろし、我を膝に抱き上げた。
「実俊様が、この間、面白いことをおっしゃっていたの。人は、言葉にできない想いほど、大切に抱えているものだって」
何気ない口ぶりに、存外深く刺さるものがあった。その言に頷きたくなる己を、我は皮肉に思う。あの男とて、口にできぬ何かを抱えているはずだ。似た者同士が、それぞれの理由で黙している。滑稽と言えば滑稽な図であった。
「わたしも、うまく言葉にできないことがあるの。誰かに何かを伝えたいのに、どう言えばいいのか分からなくて」
真白の声には、いつもの穏やかさに加えて、微かな迷いが滲んでいた。何を思ってのことか、我には測りかねる。問い返す術もない。ただ、膝の上で身を丸め、彼女の指先が毛並みをなぞる感触に身を委ねた。
かつてのアゼルであれば、言葉の力を波動の理として解剖し、意のままに操っていただろう。だが今は違う。言葉とは、放つ側の心と、受け取る側の心が、互いに歩み寄ってようやく届くものだと知った。理屈だけでは、決して足りぬ。
雨がわずかに弱まる。真白の指の動きが緩やかになり、やがて静かな寝息へと変わっていった。
我はその重みを膝に受けながら、闇に沈む庭を見つめる。紫陽花の色は、この暗さでは判じようもない。それでも、そこにあることだけは分かる。
伝えられぬ想いを抱えたまま、それでも傍にいることはできる。声を持たぬ身にも、できることはまだ残されている――そう理を組み立ててはみるものの、慰めにしては些か苦い。
猫である我には、何もできぬ。だが、それでも今宵はこの温もりを守り抜く。それだけで、十分だと言い聞かせた。
雨はまだ、屋根を叩き続けている。真白の寝顔は穏やかで、その安らぎだけが、今の我にとって疑いようのない確かな理であった。




