番外編 第十八話「影走りの夜」
挿入時間軸:第26話と第27話の間(秋)
夜気に混じる紅葉の匂いは、青葉の頃とは違う。乾いた甘さと、どこか焦げたような苦みが同居している。庭木の影も、夏よりずいぶんと長く伸びるようになった。
その夜、我は寝床を抜け出し、庭の外れまで足を運んでいた。眠れなかったわけではない。ただ、屋敷の境をなぞる気配が、いつもと違ったからだ。
築地塀の際に、人影が一つ。葛上真澄だった。
普段は屋敷の奥、目立たぬところに控えている男が、こんな刻限に外へ出ているのは珍しい。近づくと、彼の周りの空気だけがわずかに歪んで見えた。地に伸びるその輪郭は、本人よりも一回り大きい。
「……くろまろ殿か」
振り向きもせずに言い当てられ、我は塀の上に飛び乗った。見下ろす形で真澄の手元を窺う。指先が印を結ぶように動き、地に落ちた影がそれに応じてわずかに震える。
「屋敷を囲む結界の綻びを、直しているのでございます」
問うたわけでもないのに、真澄はそう答えた。声には抑揚が少なく、ただ淡々と己の仕事を述べているだけのように聞こえる。
「紅葉の季節は、山の気が乱れやすい。獣も物の怪も、境を越えて迷い込みやすくなるのでござろう。姫のお心を騒がせぬためにも、これは欠かせぬ務めでございます」
なるほど、理には適う。木々が色を変える時分は、五行の均衡もまた揺らぎやすい。我のように理を知る者ならば頷けるが、真澄がそれをどこで学んだのかは知らぬ。半妖という身の上ゆえか、あるいは長く生きた者だけが積む知恵か。
影が塀の際に沿って伸び、地面に淡い紋様を描いていく。人にも妖にも見えぬ、その中間にあるような術式だ。異界の理とはまた違う理屈で組まれている。興が湧かぬと言えば嘘になる。
面妖な問いを許せ――その身をどう思うているのか、我は視線だけでそう問うた。無論、声に出せるはずもない。真澄が一瞬、手を止める。
「人でもなく、妖でもなく。どちらの理にも半端に属する身でございます」
淡々とした声の中に、微かな翳りが混じった。
「されど、それでよいと思うております。境に立つ者がいなければ、内と外を分かつ線は保てぬ。誰かが担わねばならぬ役目であれば、我が担うまでのこと」
言い切る声に、迷いはないように聞こえた。だが影の伸び方が、いつもよりわずかに長い。理屈だけでは測れぬものが、そこにはあった。
紅葉が一枚、風に流れて真澄の肩に落ちた。彼はそれを払いもせず、印を結ぶ手を止めない。
その人を大切に思うておるのだろう――問うまでもないことを、我はあえて胸の内で確かめた。答えを急かすでもなく、ただ尻尾で塀を叩く。彼の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……姫は、我のような者にも分け隔てなく接してくださる。それだけで、十分でございます」
それ以上は語らぬ。語らぬことが答えでもあった。かつて理の頂に立ち、万象を統べたと自負した身にも、この手の慎ましさは持ち合わせておらなんだ。人の理とは、あるいは妖の理とは、時に我の知る理よりも重い。
結界を直し終えたか、真澄が印を解いて息をひとつ吐いた。影が本来の輪郭に戻り、地に沈む。
「夜更けに、見苦しいところをお見せいたしました」
見苦しいことがあるものか――そう返したいところだが、伝わる術はない。ただ、塀から飛び降りて彼の隣に並んだ。それだけで、意は通じているはずだ。
「くろまろ殿も、理に縛られた身であるのでござろう。見ればわかること。……我らは、案外似ているのでござろう」
意外な言葉に、我は彼を見上げた。その目には、月明かりが淡く映り込んでいる。それ以上の説明はなく、真澄はただ静かに屋敷への道を歩き出した。
我もまた、その後をついて歩く。紅葉の匂いを含んだ夜気が、二つの影を追い越していった。




