番外編 第十七話「後ろの足音、お先にどうぞ」
挿入時間軸:第60話と第61話の間(早春)
ぺた、ぺた、と乾いた音が背後を追ってくる。振り向いても、そこには夜道と月影しかない。だが足を進めればまた、ぺた、ぺた、と鳴る。
節分の豆騒動から幾日か過ぎた宵のことだ。屋敷の見回りついでに外へ出た我は、いつもより遠くまで足を延ばしていた。早春とはいえ冷気はまだ緩まず、爪先に触れる土は湿りを帯びている。
最初は己の足音の反響かと思うた。だが数を数えれば合わぬ。我の歩みは四つ、聞こえるのは二つ分遅れた歩調だ。理屈に合わぬものを放っておけぬのが、我という性分でもある。
足を止める。ぺた、と一拍遅れて音も止んだ。
振り返る。夜道には誰もいない。月明かりに照らされた土の道が、ただ真っ直ぐ延びているだけだ。
再び歩き出す。ぺた、ぺた。
三度、四度と繰り返すうち、さすがに毛が逆立った。異界の理を修めた身が、たかが夜道の足音一つに動じるとは滑稽だが、姿の見えぬ気配というものは、理屈より先に肌――否、毛皮を粟立たせる。
「何者だ」
声には出せぬゆえ、低く喉を鳴らして牽制した。応えるように、足音が一つ、すぐ背後で鳴る。ぺた。
振り向いた先に、初めてそれが見えた。
薄墨のように滲んだ人影。輪郭は朧げで、顔らしきものはあるが、目鼻の形までは定かでない。危害を加える気配はなく、ただそこに立ち尽くしている。歩みを止めれば止まり、進めば追う。それだけの、単純な理を持つ何かだった。
道端の草陰から、くすくすと笑うような声が漏れた。消しかけていたその姿が、恥じ入るように輪郭を薄くする。
害意はない。むしろ気弱ですらある。ならば恐れる理由もない。
我は歩みを止め、道の端へと退いた。尻尾で先を示す。人語は話せぬが、意は伝わったらしい。
影はためらうように揺れ、やがてすうと我の脇を通り過ぎていった。ぺた、ぺた、という足音が遠ざかり、やがて夜の底へ溶けて消える。
先を譲られただけで満足するとは、まこと欲のない輩よ。皮肉のひとつも吐きたいところだが、口はこの身では動かぬゆえ、内心で笑うにとどめておいた。
屋敷への帰路、木戸のあたりで真名井実俊と行き合った。書物を小脇に抱え、こんな刻限まで陰陽寮に詰めていたと見える。
「お前、こんな時分にどこをうろついていた」
問われても答えようがない。ただ土のついた前脚を舐めて誤魔化す。
「毛が乱れているぞ。……変わった夜だったのか」
図星を突かれ、我は素知らぬ顔で歩き出した。実俊がやれやれというふうに肩をすくめ、後をついてくる。
木戸の向こうで、屋敷の灯りが小さく揺れていた。ぺた、ぺた、という余韻は、もうどこにも聞こえない。
【妖怪図鑑】
■べとべとさん
【分類】道妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★★☆☆(やや稀)
【出現場所】夜道、峠道、人けの絶えた辻
【特徴】
姿は朧げで定かならず、ただ背後に足音だけを響かせて追ってくる妖怪。実体を持たぬに近く、触れることも掴むこともできない。人に危害を加えた例はなく、ただ道を共に歩みたいだけとも言われる。極めて臆病な性質で、正面から見据えられると輪郭を薄れさせる。
【得意技】
・追随:気配を悟らせず、歩調を一拍遅らせて追ってくる
・気配薄れ:見つめられると姿を朧化させ、逃げるように離れる
【弱点】
・道を譲られる、あるいは「お先にどうぞ」と道の端に退かれると、満足してすぐに立ち去る
・強い光や大声には弱く、姿を保っていられない
【生態】
夜道に限って現れ、昼間は気配すら残さない。特定の道に縁があるわけではなく、旅人や夜歩きの者の背後に気まぐれに付くとされる。悪さをする力も意志も持たぬ、ごく気弱な妖怪である。
【玄丸の評価】
「拍子抜けするほどに他愛ない輩であった。姿を見せず追うばかりで、道を譲れば満足して去っていく。異界の理でいえば、意式の力すら満足に持たぬ、影の残滓に近い存在であろう。とはいえ、正体を見極めるまでの緊張は、猫の身にも堪えるものであった」
【遭遇時の対処法】
慌てず、道の端に退いて先を譲るのが最善。振り返って正体を確かめようとする必要はなく、放っておいても危害はない。大声を上げて追い払う必要もない。
【豆知識】
各地に似た伝承を持つ道妖怪が存在し、地方によっては「送り提灯」「送り犬」など、夜道の同行者としての性質を持つ妖怪と混同されることがある。本作の個体は、それらの中でも特に無害で気弱な部類に属する。




