番外編 第十六話「凍える言の葉」
挿入時間軸:第40話と第41話の間(冬)
言葉というものは、放たれた刹那にはただの音でしかない。それが刃にも慰めにもなるのは、受け取る者の内側で形を変えるからだ――そう理を組み立ててみたところで、今宵の我には、さして慰めにもならぬ。
あの女の話を聞いてより、幾夜が過ぎたか。奪われた声、届かなかった想い。人の理とは、かくも脆く、かくも容赦がない。
屋敷は寝静まっている。だというのに、藤原真白の部屋にはまだ灯りが漏れていた。行灯の芯が小さく爆ぜる音がする。
障子の隙間から覗くと、彼女は褥に横たわらず、脇息に凭れて庭を見ていた。頬に落ちる影が、いつもより深い。
我は音もなく忍び入り、褥の端に腰を下ろした。彼女の視線がこちらへ流れ、わずかに緩む。
「眠れないの。あなたも?」
答えようもない問いに、我は尻尾の先だけを揺らした。それで通じたのかどうかは分からぬが、真白は小さく笑い、我の背に手を置いた。
「あの人のこと、考えていたの。声を奪われたまま、誰にも届かなかった人のこと」
言葉を切り、膝の上で指を組む。
「わたしが誰かに何かを伝えたいと思っても、届く前に消えてしまうことがあるのかもしれない。そう考えると、少し怖くて」
漠然とした不安であることは、我にも察せられた。だが漠然としているからこそ、根が深い。理で解けるならとうに解いている。彼女自身、答えを求めて口にしたわけではあるまい。
我はただ、彼女の膝に額を寄せた。言葉は返せぬ。だが温もりならば、いくらでも分け与えられる。
庭先で、板を踏む微かな音がした。影が一つ、庭木の暗がりに紛れて動く。目を凝らすまでもなく、あの気配は知れている。
「そこにいるの……?」
真白が呟くと、庭先の影は片膝をつき、静かに頭を垂れた。葛上真澄だった。
「夜更けの見回りにございます。姫のお声が聞こえたゆえ、失礼をば」
「大丈夫よ。少し、眠れなかっただけ」
「霜の重い夜は、心も凍えるものでござろう」
それだけ言うと、真澄の姿はまた闇へ溶けていった。姿を消す間際、こちらへ向けられた一瞥に何が宿っていたか、我には測りかねる。半妖の目は、人よりも多くのものを見ているようにも思われた。
真白が小さく息を吐き、褥に身を沈めた。眠気はまだ訪れぬらしい。目の下に浮いた翳りを見るに、このまま朝まで持ち越しかねぬ。
我は喉の奥で、低く息を整えた。風眠の理を用いるのは、いつも無意識の縁からだが、今宵は違う。意を定め、名を刻む。柔らかな夜気が肢の先から立ち上り、褥の周りをゆるりと巡った。行灯の炎が一度だけ大きく揺れ、それきり穏やかに落ち着く。
真白の瞼が重くなっていく。抗おうとするそぶりも見せたが、長くは続かない。
「……あなたが傍にいると、なぜだか安心する」
呟きは半ば夢の中に落ちながらのものだった。指先が我の毛並みを一度撫で、力を失う。
寝息が規則正しく満ちるのを確かめてから、我は褥の外へ下りた。行灯の炎を見つめる。奪われた声のことを思う。言葉を持たぬ我もまた、同じ岸辺に立っているのやもしれぬ。
庭には霜が下り続けている。夜明けまでには、まだ間があった。
翌朝、庭先で会った真名井実俊は、いつもより口数が少なかった。手には書付らしきものを持っている。
「陰陽寮でも、あの女の噂で持ちきりだ。……お前は、何か知っているのか」
問いかけには答えず、我はただ庭木の根方に目をやった。実俊がしばし黙り、それ以上は追及せずに屋敷の奥へと歩いていく。
霜の白さが、朝日にほどけていく。まだ、何一つ終わってはいない。




