番外編 第十五話「霜の毛繕い」
挿入時間軸:第56話と第57話の間(晩冬)
爪先に触れる回廊の板が、今朝はやけに冷たい。霜が下りたと見える。夜半に立てた耳が覚えている、あの澄んだ音――霜柱の砕ける気配だ。
屋敷の中はまだ眠りの気配を残している。我は伸びをひとつ、爪を立てて板を引っ掻いてから、藤原真白の部屋へと向かった。
障子を開けると、彼女は文机の前に座り、着物の裾を膝に広げていた。針を手にした横顔は、朝の光の中で妙に真剣だ。
「ここが、ほつれてしまって」
独り言のように呟き、糸を通そうと目を細める。我はその膝に飛び乗り、垂れた布地に鼻先を寄せた。獣の目には、この程度の綻びなど取るに足らぬものに見えるが、人の指先というものは案外不器用にできている。
真白の手が止まる。針の先が布を離れ、代わりに我の背を撫でた。
「動いては、縫えないでしょう」
窘める声にも険はない。我は素知らぬ顔で丸くなり、垂れた糸の端に前脚を乗せた。これは戯れではない。糸の張り具合を確かめているだけのことだ――そう理を通したところで、真白には通じまい。
廊下の向こうから足音が近づく。軽く、跳ねるような歩調。
「まっしろさま、おうめさまが呼んでるって、わらべ聞いてきたよ」
顔だけ覗かせたその子の手には、粉のついた布巾が握られている。厨の匂いを纏っているところを見ると、また何か拵え物の手伝いをさせられていたのだろう。
「お梅が? わかりました、すぐに」
真白が針を布に刺し、立ち上がろうとする。その拍子に、糸玉が畳へ転がり落ちた。我の前脚が反射的にそれを追う――のは猫の性であって、他意はない。
「あ」
真白の声が小さく上がる。糸は我の肢に幾重にも絡み、逃げようとするほどに締まっていく。滑稽な絵図であることは、我自身よく承知している。かつて理の頂に立った身が、たかが糸一本に翻弄される。皮肉を吐きたいところだが、口はこの身では動かぬ。
わらべが腹を抱えて笑い出した。
「くろまろさま、毛玉になってる!」
真白も口元を袖で覆い、肩を震わせている。笑い声というものは不思議と、寒さの棘を丸くする効き目がある――そう分析してみるが、実際のところは単に、この声を聞くのが心地よいだけかもしれぬ。
糸をほどくその指は存外丁寧で、我の毛並みを乱さぬよう、一本ずつ確かめるように解いていく。触れる指先は冷えているのに、なぜか肢の絡まりが緩むたび、そこだけ温もりが宿るように思えた。
「もう、じっとしていてくださいね」
苦笑混じりの声に、我は尻尾で答えた。
厨からお梅の呼ぶ声が二度、三度と重なる。彼女が慌てて立ち上がり、廊下へ駆けていく背を、我は文机の陰から見送った。糸玉はまだ畳に転がったまま、朝の光に淡く光っている。
その後、庭先で会ったのは真名井実俊だった。手には薬包みを提げている。真白の母のための煎じ薬だと、以前にも見た覚えがある。
「今日も届けに来た。……お前は、また何をして毛が乱れている」
実俊が眉を寄せ、我の背に絡んだままの糸くずを一房、指で摘み取った。無遠慮な手つきに、耳が思わず伏せる。悪意がないことは承知しているが、それとこれとは別の話だ。
「真白殿は?」
問われて、我はただ厨の方角へ視線をやった。実俊がその視線を追い、頷いて歩き出す。後を追おうとした足が、一瞬止まる。理由は問うまでもない――問うまでもないと、我は己に言い聞かせた。
廊下の角で、影のように控えていた葛上真澄と目が合った。
「霜の朝は、獣にも人にも堪えるものでござろう」
低い声が短く落ちる。それだけ言うと、真澄は音もなく厨の方へ姿を消した。含みのある物言いだが、深追いする気にはなれぬ。冷えた廊下に一人残り、我は再び爪先で板を引っ掻いた。
畳の上の糸玉は、まだそこにある。ほどけたままの端が、次に誰の指へ渡るのかは知らぬ。




