番外編 第十四話「割れた甕、迫る満月」
挿入時間軸:第44話と第45話の間(早春)
がしゃん、という乾いた音が厨に響いたのは、夕餉の支度が始まって間もない頃であった。
我――玄丸は音のした方へ首を向けた。土間に転がっているのは、割れた甕の破片と、こぼれた味噌の塊である。その傍らに、蕗が青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「申し訳ございません、お梅様。手が滑って……」
「まあまあ、大事ないかい。怪我はしていないね」
お梅が奥から駆けつけ、蕗の手を確かめる。幸い、切り傷の類はないようであった。だが蕗の肩は、震えを隠しきれずにいる。
(この娘、ただ手を滑らせただけではあるまい)
我は割れた破片の間を縫うように歩み、その娘の足元に近づいた。その爪先が、いつになく落ち着きなく土間を踏んでいる。理を読み解くまでもない。明日に控えた満月の儀――口無し女を鎮めるための大がかりな術行が、屋敷の者たちの間にも重い影を落としているのだ。
「蕗、少し休みなさい。器なら、また買えばいいだけのこと」
お梅の声は柔らかかったが、彼女は首を横に振った。
「休んでなどいられません。明日は姫様も真名井様も、あんなに大変な役目を負われるのに、わたしだけが何もせず……気が急いてしまって」
言葉の終わりは、掠れて消えた。厨の隅から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。姿を見せたのは、屋敷の座敷童子――わらべであった。手には、拾い集めた甕の欠片を握りしめている。
「蕗、悲しい顔してる。直してあげる」
「これは、直るようなものでは……」
「大丈夫、大丈夫。お椀ならわらべが貸してあげる。厨の宝物、いっぱいある」
その子が得意げに胸を張ると、蕗の口元にわずかな笑みが戻った。子供の妖の無邪気さは、時に大人の理屈より効き目がある。我はその光景を、土間の隅から見届けていた。
(人も妖も、それぞれのやり方で、明日に備えておる)
お梅が箒を手に取り、破片を片付け始めた。蕗も慌てて手伝いに加わる。二人の手の動きは、いつもより幾分速い。誰もが、口には出さぬまま、明日という日の重さを感じ取っているのだろう。
我は厨を出て、渡殿へと向かった。夜気はまだ冷たく、庭の梅の香りがかすかに漂っている。見上げれば、明日には満ちるであろう月が、七分ほどの姿で夜空にかかっていた。
(明日、真白の言霊と理を重ねる。金の理と水の理、二つを同時に紡ぐことになろう。厨の甕のように、己が砕けぬとも限らぬ)
考えを巡らせていると、背後に足音がした。振り返らずとも、その気配で誰かは知れる。
「厨にて、何やら騒ぎがあったようでございます」
葛上真澄が、闇の中から歩み寄ってきた。我は尾の先を軽く振り、大事ではないと示す。真澄はしばし月を仰いでから、口を開いた。
「蕗殿は、気を張りすぎでござろう。明日は誰もが役目を果たす。それだけのこと」
「あなたも、緊張していないと言えば嘘になるでしょう」
いつの間にか、真白が渡殿の端に立っていた。夜着の上に薄物を羽織り、月明かりに白い頬を照らされている。真澄が軽く頭を下げた。
「姫様のお耳にまで届いてしまいましたか」
「厨の音は、屋敷中に響きましたもの」
真白は小さく笑い、それから我の傍らに膝をついた。指先が耳の後ろを撫でる。
「玄丸も、明日は大きな役目を担ってもらうことになるわ。無理はしないでね」
言葉に応える術を持たぬ我は、ただ喉を鳴らして応じた。真白の手のひらから伝わる温もりが、先ほどまでの重い思案を、わずかに和らげていく。
真澄が一礼して闇へ退くと、渡殿には彼女と我だけが残された。月はまだ満ちきらぬまま、雲の切れ間から淡い光を落としている。
「明日の夜には、きっと丸くなるわね」
呟くような真白の声に、我は答える代わりに、その膝へそっと頭を寄せた。厨からは、蕗とわらべの控えめな笑い声が、まだ途切れずに聞こえていた。




