番外編 第十二話「初霜の夜、姫の咳」
挿入時間軸:第34話と第35話の間(初冬)
その朝、庭の白砂には初めての霜が降りていた。踏めば崩れる白い結晶を、我――玄丸は前足でひとつ、確かめるように押し潰す。冬の気配は、猫の肉球にすら容赦なく染み込む。
屋敷の奥から、小さな咳の音が聞こえたのは、その日の夕刻であった。
「ん――ん、これしきのこと、大事ございません」
真白は袖で口元を隠しながら、そう繰り返していた。頬にはうっすらと熱の色が差している。侍女が幾度も勧める褥に、真白は首を横に振るばかりであった。
(強情なことよ。この身が理を統べていた頃も、配下の者は皆、弱みを見せることを恐れておった。人の姫も変わらぬと見える)
我は真白の膝に飛び乗り、丸くなった。体温を分け与える他に、今の我にできることはない。真白の指先が耳の後ろを撫でると、乾いた咳がまたひとつ零れた。
夜が更け、屋敷の者たちが寝静まった頃、褥に横たわる彼女の傍らへと戻った。呼吸は浅く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
(風眠を使うべきか。だが、猫がかように器用な理を操るところを見られては)
迷いは長くは続かなかった。喉の奥で低く音を鳴らし、その震えを空へ放つ。声が空間の振動として広がり、次いで真白を案じる想いが、その波に向きを与えた。柔らかな風が褥の周りにわずかに生まれ、乱れた呼吸をなだめるように流れていく。真白の眉間から、力が静かに抜けていった。
「まあ、猫殿が添い寝を」
障子の向こうから声がした。行灯を手にしたお梅が、生姜湯の入った土器を捧げ持って立っている。我は素知らぬ顔で、身繕いを始めた。風の余韻を悟られぬための、いつもの手管である。
「姫様、お目覚めでしたら、これをどうぞ」
その声に、真白はうっすらと瞼を開けた。
「お梅、すまないこと。夜分に」
「なんの。若い頃から風邪ひとつ、放っておいて拗らせるのが姫様の悪い癖でございますよ」
軽口を叩きながら、お梅は生姜湯の椀を真白の手元に寄せた。湯気が行灯の灯りに揺れる。真白はひと口すすると、小さく息をついた。
「近頃、少し肌寒くて」
「霜が降りましたからねえ。年の瀬も近うございます」
その言葉に、廊の奥からぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。姿を見せたのは、屋敷の厨に住み着く童形の座敷童子――わらべである。手には炭を山ほど抱え、危なっかしい足取りで火桶に近づく。
「姫様を暖めるの手伝う!」
意気込みのあまり、炭は半分ほど床にこぼれ落ちた。お梅が慌てて拾い集める傍らで、その子は得意げに胸を張っている。真白は口元をほころばせ、小さく笑った。
「ありがとう、わらべ。おかげで、もう寒くないわ」
「ほんとに?」
「ええ、本当に」
その遣り取りを、我は褥の端で見届けていた。人と妖と、心優しき老女が一つの部屋に集い、姫の熱を案じている。理を統べる王であった頃には、想像もしなかった光景であった。
わらべが炭を片付け終え、お梅が空の椀を持って下がると、部屋には再び静けさが戻った。真白は褥に身を横たえ、我のほうへ手を伸ばす。
「あなたも、今夜は傍にいて」
言葉に応える術を持たぬ我は、ただ真白の腕の中に身を寄せた。呼吸はすでに穏やかで、熱もいくらか引いている。風眠の効き目は、思うていたより長く続くらしい。
(明日には、咳も治まっていよう。理を使うたことは、誰にも悟られておらぬ――はずだ)
そう己に言い聞かせながらも、我の耳の奥には、先の遣り取りが残っていた。人を暖めるのに、格別な力など要らぬ。ただ、傍にいるということだけで、事足りる場合もあるのだと。
障子の外では、霜がさらに厚みを増していく。年の瀬はもうすぐそこまで迫っていた。




