番外編 第十一話「凪ぎの夜、粥ひとさじ」
挿入時間軸:第46話と第47話の間(初春)
(力を使い果たすとは、こういうことか)
我――玄丸は、廂の隅に伏せたまま、四肢の先まで抜けていく重さを数えていた。鈴声と夢鏡、二つの理を同時に紡いだ代償は、思うていたより深く骨に染みる。満月の残光すら、今の我には遠い。
(あの女子の声を取り戻すため、真白の言霊と我の理を重ねた。あれほどの共鳴は、初めてであった)
廊の向こうから、湯気の匂いが漂ってくる。足音は重く、規則正しい。姿を見せたのは、屋敷の厨を長年預かるお梅であった。手には粥の入った土器を捧げ持っている。
「まあまあ、こんなところに転がって。今宵は姫様も大層お疲れのご様子でしたが、猫までもがそのような顔をして」
顔、という言葉に我は片耳を動かした。猫の面に感情は浮かばぬはずだが、この老女は時折、人の機微を見抜くような目をする。粥を土器ごと縁に置くと、お梅は膝をつき、湯気の立つそれを我の鼻先へ寄せた。
「精のつくものを食べねば、身がもちませぬよ。姫様が案じておいででした」
その一言に、我は目を細めた。気遣われる立場にあるとは、思うてもみなかった。異世界にあっては、気を配るのは常に我のほうであった。理を統べる者に、弱さを労わる声など存在せぬ。
(人の情とは、かように面倒で、かように――)
言葉を継ごうとした矢先、影が一つ、音もなく廊の柱の陰から伸びた。
「お梅殿、夜分に恐れ入ります」
現れたのは葛上真澄であった。半妖の血を宿す家令は、闇に溶けるようにして立ち、我と老女の間に静かな一礼を差し挟む。老女は驚いた素振りも見せず、心得た様子で立ち上がった。
「いらしたのなら、あとはお任せいたしましょう。猫殿、ちゃんとお食べなさいませね」
土器を我の傍らに残し、お梅は廊の向こうへ戻っていった。足音が遠ざかると、真澄は縁に片膝をつき、我を見下ろした。
「本日の術行、無理を通されたようでござろう」
推し量るような口ぶりに、我は伏せた姿勢のまま尾の先だけを動かした。図星を突かれたことへの、せめてもの応えである。
「金の理と水の理、二つを同時に操るは、猫の肉に過ぎた業でございます。今後は控えられますよう」
一転、断定の響きを帯びた声。真澄の語尾は常に二つしかない。推し量る時は濁し、告げるべき時は迷わぬ。その律義さが、この半妖の律をよく表している。
我は粥に鼻先を寄せ、ひと舐めした。米の甘みが、抜けた力の輪郭をわずかになぞる。彼はしばし、我の食む様を見つめていた。
「姫様は、あなた様のことをよほど案じておいででござろう。術行のあと、幾度も廂の様子を尋ねに参られました」
(真白が)
その名を思い浮かべるだけで、胸の内の理がわずかに乱れる。理由を説明づけようとして、我は言葉を持たぬ己の限界に突き当たった。異世界にあらば、感情もまた数式として解けたはずだ。だが、この乱れには、いかなる式も追いつかぬ。
「案じられることに、慣れておられぬご様子でござろう」
真澄の声には、皮肉ではなく、静かな見立てが滲んでいた。半妖として人と妖の境に立ち続けてきた者だからこそ、見抜ける機微であろう。我はそれに応えず、ただ粥を舐め続けた。
「我が身もまた、同じでござろう」
呟くように零された一言に、我は顔を上げた。真澄の視線は廊の先、闇の奥に向けられている。人でも妖でもなく、どちらの理にも完全には属せぬ者の目であった。
「案じられるより、案じる側でいるほうが、よほど楽でございます」
告げると、真澄は影に溶けるように立ち上がり、一礼を残して廊の闇へと退いていった。影走り(かげばしり)の術跡は、瞬きの間に消える。残されたのは、粥の湯気と、我一匹の重みだけであった。
(案じられることに、慣れておらぬ、か)
真澄の見立ては正しい。理を統べていた頃の我に、そのような立場はなかった。だが今、この身は猫であり、この心はどこかで、真白の気遣う声を待っていた。
(理の乱れだ。ただそれだけのこと)
我は己にそう言い聞かせ、残った粥を平らげた。土器の底に映る己の顔は、いつもより幾分、疲れて見えた。廂の外では、初春の風がまだ冷たく、庭木の梢を静かに揺らしていた。




