番外編 第十話「灯に滲む言の葉」
挿入時間軸:第68話と第69話の間(晩春・夜桜を控えた頃)
弥生の末、藤原家の廂に差し込む光は、日ごとに橙を濃くしていく。我――玄丸は、簀子の縁に腹這いになり、その光の筋を眺めていた。
(近づく夜桜の宴。人の子らは、それだけでこうも浮き足立つものか)
廊の奥から衣擦れの音がする。姿を見せたのは真名井実俊であった。手には結び文を一つ携え、いつになく足取りが定まらない。理を重んじるはずの若者にしては、珍しい歩みであった。
「玄丸、これを――」
実俊の声は途中で止まった。文を差し出しかけた指先が、宙で止まる。我はその文の端を見やり、耳を伏せた。
(我に届けよと言うか。それとも、届けるべきか迷うておるのか。判じかねる)
実俊は文を懐にしまい直すと、簀子に腰を下ろした。夕光が横顔を橙に染める。
「真白殿に、夜桜の刻限を伝えねばならない。ただ、それだけのことなのだが」
言葉とは裏腹に、彼の指先は袖の中で幾度も文を握り直していた。筋道を重んじるはずの陰陽師見習いが、たかが刻限の伝達にこれほど手間取る。我はその矛盾を興味深く眺めた。
(理の乱れというやつだ。汝もまた、割り切れぬ数式を抱えておるのだな)
我は前足を伸ばし、彼の袖にそっと触れた。禁じ手の一語ゆえ、この一度きりに留める。相手は驚いたように我を見下ろし、それから小さく笑った。
「お前にまで見透かされているとはな」
理詰めの口ぶりに、珍しく崩れた響きが混じる。彼は懐から文を取り出すと、今度は迷わず立ち上がった。
「真白殿のところへ、共に来るか」
問いかけの形を取りながら、彼の足はすでに廊の奥へ向いていた。我は伸びをしてから、その背を追う。
姫は文机に向かい、和歌を書き付けていた。灯台の火が、その白い指先を照らしている。近づく気配に気づくと、筆を置いて顔を上げた。
「実俊様。今日はいつもより、遅うございましたね」
その声には咎める色はなく、ただ夕刻の静けさに馴染む柔らかさがあった。青年は文を差し出す代わりに、口頭で刻限を告げた。懐の文は、結局最後まで開かれなかった。
(渡さなんだか。理屈で固めた言葉よりも、声のほうが真であったということか)
我は姫の膝元に飛び乗り、丸くなった。指先が耳の後ろを撫でる。灯台の炎が揺れ、三つの影を壁に長く伸ばした。
実俊が辞去する際は、簀子まで見送った。彼は懐の文を取り出すと、しばし眺めてから、袂の奥深くにしまい込んだ。
「今宵は、これでいい」
独り言のように零された一言に、我は答える術を持たぬ。ただ尾の先を軽く揺らし、その背が門の向こうに消えるまで見届けた。
(理を尊ぶ者が、理を出し渋る夜もある。人の心とは、まこと厄介な構造をしておる)
灯台の火は、まだ文机の上で揺れていた。次の満月には夜桜の宴が控えている。あの文が結局どこへ届くのか、我は知らぬ。知らぬまま、廂の闇へと爪先を進めた。




