番外編 第八話「厨の秋、蕗の粗相」
挿入時間軸:第105話と第106話の間(秋)
焦げた匂いが、渡殿の先まで漂ってきた。
甘さと苦さの入り混じった、何とも言い難い香りだった。栗を焚く季節にしては、いささか行き過ぎている。我は鼻先を上げ、その出処を確かめるべく厨のほうへ足を向けた。
このところ、都のあちこちで小さな異変が続いているという。妖どもの間でも、界境の乱れを口にする者が増えた。屋敷の奥でも、藤原真白(ふじわら の ましろ)の眉間に翳りが差す夜が多くなっている。だからこそ、こうした些末な騒ぎには、いっそ安堵すら覚える。
(栗が黒焦げになったところで、世は滅びまい)
そう独りごちながら、厨の戸口をくぐった。
案の定、鍋から立ち上る煙の中心に、蕗が立ち尽くしていた。焦げ付いた鍋底を前に、箸を握ったまま動けずにいる。
「また、やってしもうた……」
小さな呟きが漏れた。お梅が奥の水瓶から駆け戻ってきて、鍋の中を覗き込むなり、大きく息をついた。
「火加減も見ずに、他のことに気を取られておったんじゃろう」
叱る声に棘はあるが、本気の怒りではない。長年この厨を預かってきた老女の、慣れた小言である。蕗は肩をすぼめ、言い訳の言葉を探しあぐねているようだった。
我は鍋の縁近くまで歩み寄り、匂いを確かめた。栗の甘露煮を作ろうとして、火にかけたまま他の作業に手を回していたと見える。人という生き物は、一度にいくつもの用事を抱え込みたがる。猫であれば、今この瞬間の匂いにのみ集中していれば事足りるものを。
厨の隅、米櫃の陰から、小さな影がひょいと顔を出した。わらべである。屋敷の厨に住み着いて久しい座敷童子は、この手の騒ぎになると決まって姿を見せる。
「蕗、しおを入れすぎたでしょ」
無邪気な指摘に、彼女の顔がさらに赤くなった。
「わらべ様、それは今言わんでも……」
「だって、さっき蕗がべつの壺から取ってた」
言われて、お梅が壺の中身を検めた。案の定、味醂の壺と塩の壺が、隣同士に置き換えられている。厨の片付けの最中、誰かが取り違えたものらしい。この妖の仕業かと思いきや、当人は首を横に振った。
「わらべじゃないもん。でも、蕗が間違えるの、面白いから黙ってた」
正直すぎる白状に、お梅が呆れた声を上げた。彼女は膝から崩れ落ちんばかりの様子で、鍋の焦げ跡を見つめている。
我は米櫃の陰から出てきたわらべの傍らに腰を下ろした。子供の姿をしたこの妖は、屋敷の些事にはことのほか敏い。だが、都を覆いつつある大きな異変には、まだ気づいていない様子だった。それでよい、とも思う。すべての者が同じ重さの不安を背負う必要はない。
「甘露煮は諦めるとして、この鍋、どうしたものかしら」
お梅がそれを持ち上げ、光にかざしながら呟いた。底の部分だけがひどく黒ずんでいるが、上澄みの栗はまだ無事に見える。
蕗が慌てて弁明を始めた。
「上のほうだけでも、味を確かめてから……」
「味見をするのはお前じゃ。わらわは御免じゃ」
お梅の即答に、厨の中に小さな笑いが起きた。蕗が渋々匙を取り、恐る恐る鍋の中身を口に運ぶ。しばしの沈黙のあと、意外にも表情が緩んだ。
「思ったより、悪くないやも……」
その微妙な物言いに、この妖が真っ先に飛びついた。
「わらべも食べたい!」
我はその様子を、少し離れた場所から眺めていた。焦げた栗の甘露煮ひとつで、この厨はいつも通りの騒がしさを取り戻している。都の異変も、界境の綻びも、この場の空気には及んでいない。
姫が渡殿を通りかかり、厨の騒ぎに気づいて顔を覗かせた。
「まあ、今日はまた賑やかなこと」
「姫様、蕗が塩と味醂を間違えたの」
わらべが得意げに告げ口をする。彼女が赤面しながら頭を下げる横で、真白は笑みを浮かべ、焦げ鍋の中身を少しだけ取り分けてもらっていた。
「わたしにも、味見をさせてくださる?」
匙を受け取る姫の指先を、我はしばらく見つめていた。この人の笑みが曇る夜が続いていたことを、この厨にいる誰よりも、我はよく知っている。だからこそ、今この一時の呑気さを、無下にはしたくない。
甘露煮の出来は、結局のところ及第点にも満たなかったらしい。彼女は控えめな笑みを浮かべたまま、それ以上は何も言わなかった。
お梅が新しい鍋を用意し始め、蕗が塩と味醂の壺を、今度こそ離して並べ直す。わらべは焦げた鍋の残りを、まだ未練がましく突いていた。
厨の外では、日暮れが早くなった秋の陽が、渡殿の柱を長く伸ばしている。我はその影の伸びる速さに、季節の移ろい以上の何かを感じ取りながら、ひとまずは目の前の騒がしさに紛れることにした。




