番外編 第七話「日陰に潜む者」
挿入時間軸:第93話と第94話の間(夏)
蝉の声が、庭の隅から途切れることなく降り注いでいた。
日盛りの熱気は、猫の身にはいささか堪える。我は縁側の日陰を選んで寝そべり、尻尾の先だけをゆるく動かしながら、この暑さをやり過ごす算段を立てていた。
姫は昼餉のあと、涼を求めて奥の間に下がっている。蕗が団扇で風を送る音が、遠く廊下越しに聞こえてきた。屋敷全体が、けだるい沈黙に包まれている。
(人という生き物は、暑さひとつにこうも弱いか)
そう皮肉りつつも、我自身、毛皮の分だけ分が悪いことは認めねばなるまい。日向を避け、日陰から日陰へと居場所を移す一日である。
渡殿の先、築山の陰に、人影がひとつ蹲っていた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)である。屋敷の家令でありながら、この刻限に庭先で涼んでいる姿は、あまり見慣れぬ。常であれば、家人の目の届かぬところで音もなく立ち働いているはずの男だ。
我は日陰伝いに歩み寄った。彼は我の気配に気づいても、格別驚いた様子もなく、ただ視線だけをこちらへ寄越した。
「暑さは、お前も苦手でござろう」
問うでもなく、独り言のような口ぶりだった。我は答える代わりに、その傍らの日陰に腰を落ち着けた。返事の要らぬ問いには、応じぬのが猫の作法である。
真澄の額に、珍しく汗の粒が浮いていた。半妖の血を引く者にも、夏の暑気はこたえるものらしい。日向に長く立てば力が削がれるのか、それとも単に人と同じ道理で暑いだけなのか、我にも判じかねる。
(理を語る者ほど、己の弱みは語らぬものよ)
そう思いつつ、我は蝉の声に耳を澄ませた。真澄もまた、しばらく無言のまま、庭木の影が伸びてゆく先を眺めている。
「先だっての提灯の妖、灯りとして役立ちたがっていたそうでござろう」
ややあって、真澄がそう切り出した。姫が古い提灯を大切に扱ってやった一件を、屋敷の内では誰かしら耳にしていたと見える。
我は片耳を伏せて肯定の代わりとした。物にも心が宿るという平安の理は、猫として生きる我の目にも、あながち的外れではないと映る。
「役立ちたいと願う心は、人でも妖でも変わらぬでございます」
そう続けた真澄の声には、いつもの寡黙さに似合わぬ、微かな熱がこもっていた。役目を果たすことでしか、この屋敷における己の座を保てぬ――そういう含みが、言葉の端に滲んでいる。
我はその横顔を見た。姫の座す奥の間の方角へ、その目がわずかに動いたのを、見逃しはしなかった。
(この者もまた、届かぬ想いを飼い慣らしておるのだろう)
その内心を、自らの胸の裡と重ねることは、あえてしなかった。似た者同士と認めてしまえば、こちらの理の乱れまで露わになりかねぬ。皮肉げに鼻を鳴らし、我はその考えを毛繕いの仕草でごまかした。
蝉時雨が、ふと途切れた。庭のどこかで、蜩がひと声鳴いて、また静まる。
「暑さも、いずれ和らぐでござろう」
真澄がそう呟いて、腰を上げた。日陰から日向へ踏み出す足取りに、迷いはない。役目に戻るのだろう。庭の隅、井戸端の方角へ、影を踏むように歩いていく。
我はその後ろ姿を見送りながら、尻尾で地面を一度叩いた。
理に縛られた者同士、慰め合う言葉など持ち合わせぬ。ただ、同じ日陰でしばし涼んだという、それだけの間柄である。
姫の部屋から、蕗の団扇の音が、まだ途切れずに続いていた。日盛りはこれからが本番だというのに、屋敷の時はやけにゆるやかに流れている。
我は日陰の位置を測り直し、また新たな寝床を探しに、重い腰を上げた。




