番外編 第六話「桜支度と狸の口上」
挿入時間軸:第65話と第66話の間(春)
「明日には、庭の桜も八分咲きとなりましょう」
蕗の声が、廊下の向こうから弾んで聞こえてきた。姫の返す声は柔らかく、けれど支度の多さに少し疲れの色も滲んでいる。
我は縁側で香を浴びながら、その遣り取りを聞くともなしに聞いていた。花見の宴が明後日に迫り、屋敷の中はここ数日、朝から晩まで浮き足立っている。
灯籠の並べ替え、幔幕の色合わせ、酒肴の献立。お梅は厨で忙しく立ち働き、下男たちは庭木の下枝を払って回る。猫の身としては、この慌ただしさの意味の半分も分からぬが、人という生き物は、こうした一日限りの晴れ舞台のために存外な労力を惜しまぬものらしい。
(人の理とは、まこと不経済なものよ)
そう断じつつも、浮ついた空気は嫌いではない。尻尾の先が、いつもより少し高く上がっているのが、我ながら分かる。
門先で声がした。物売りらしい、やけに調子のよい口上だった。
「灯籠の飾り、桜色の紙細工、御用は御座いませぬかな。都でも滅多に手に入らぬ品にございますよ」
蕗が応対に出た。籠を背負った小柄な男が、愛想笑いを浮かべて品々を広げている。並べられた細工物は、どれも悪くない出来だ。だが我の鼻は、その男の背後にひとつだけ、人には無い匂いを嗅ぎ取っていた。
土と、枯葉と、獣の毛の匂い。人の皮を纏っていても、隠しきれぬ地のものである。
(また化け狸か)
以前、市で正直な商いをしていたあの狸の噂は、我も耳にしていた。人を化かすでもなく、真っ当に品を売って糊口を凌いでいるという、変わり者の妖である。
姫が奥から出てきて、紙細工の花を手に取った。
「まあ、これは見事な細工ですこと」
素直な感嘆の声に、狸の男――らしき者――の尻尾が、着物の裾の下でぴくりと動いたのを、我だけが見ていた。動揺を隠そうとするその仕草が、なんとも間の抜けたものに映る。
我は縁側から下り、男の足元まで歩み寄った。見上げるようにして、じっと目を合わせる。
男の額に汗が浮いた。獣同士、通じるものがあるらしい。
「こ、この猫は、なにやら賢そうで……」
姫が笑って我を抱き上げようとするのを、身をよじってかわす。今は腕の中に収まっている場合ではない。
尻尾を一度、ゆっくりと左右に振ってやった。責める気はない、というつもりの合図だが、伝わるかどうかは知れたことではない。
「客人。桜の枝ぶりに合う灯りは、どれが良いと思われますか」
姫の問いに、狸の男は我に向けていた視線を慌てて品へと戻し、朱塗りの灯籠を勧め始めた。声はいつもの調子よい口上に戻っている。
九助が裏木戸から顔を出したのは、ちょうどそのときだった。
「真白様、魚、持ってきた!」
盥に入れた鮎を得意げに抱え、河童特有の甲高い声で駆け寄ってくる。頭の皿から水が滴り、廊下を点々と濡らした。
狸の男の肩が、目に見えて跳ねた。狸と河童、種族としての相性が良いとは聞かぬ。九助のほうは無邪気に、初めて見る商人へ興味津々の眼差しを向けている。
「にんげんの匂いじゃない。おじさん、なに者?」
率直な問いに、男は言葉を詰まらせた。ここで正体が露見すれば、せっかくの商いが台無しになろう。
我は前脚で、そっと男の裾を引いた。目配せの代わりだ。九助を早く別の話へ逸らせ、という意図を、どこまで汲み取れるかは賭けに近い。
意外にも、男は察しが良かった。
「坊やは河童様でしたか。実は手前、川辺の品を扱うことも多く……鮎の目利きなら、少々自信がございますよ」
上手い切り返しだった。九助はたちまち機嫌を良くし、盥の中身について得意げに語り始める。話が逸れたことに、男が小さく息をついたのを、我は見逃さなかった。
姫は結局、桜色の紙細工をいくつかと、朱塗りの灯籠を二つ求めた。代金を渡す際、男の指先が僅かに震えていたのは、緊張のためか、それとも人の情けに触れた不慣れさのためか。
「良い品をありがとう。明後日の宴に、きっと映えることでしょう」
素直な礼の言葉に、男はしばし黙り込んだのち、深々と頭を下げた。
「精一杯の品を、お届けいたしました」
去り際、男は塀の陰で我と目が合った。人の姿のまま、しかし口の端だけが、獣の笑みに似た形を作る。何かを言おうとして、結局は何も言わず、足早に立ち去った。
(律儀な奴め)
見送りながら、そう思う。化かす気概もなく、ただ真っ当に商いをする狸というのも、妙な話ではある。だが、この都に棲む妖どもの多くが、そうした半端な生き方を選んでいるのを、我はこの一年で幾度となく見てきた。
九助はまだ鮎の自慢を続けていたが、日が傾き始めたのを見て、慌てて盥を抱え直した。
「また明日も来る!」
言うが早いか、裏木戸から水音を立てて駆け去っていく。
蕗が買い求めた紙細工を、渡殿の欄干に並べ始めた。桜色の花弁を模した細工が、夕陽を受けてほのかに色づく。
姫がその傍らに腰を下ろし、我を膝に招いた。素直に乗ってやる。今日ばかりは、それも悪くない気分だった。
「明後日は、実俊様もいらっしゃるそうよ」
その名を聞いて、我の耳が片方だけ伏せた。姫は気づかぬまま、紙細工の花を一つ手に取り、日に透かして眺めている。
渡殿の向こうで、真澄が音もなく現れ、灯籠の位置を検分していた。
「この並びでは、風の強き日には倒れるでござろう。石を足しておくでございます」
言うだけ言って、また影のように下がっていく。あの男の忠義深さは、いつ見ても変わらぬ。
庭の桜は、まだ七分といったところか。明日には八分、明後日には満開を迎えるという蕗の見立てが、当たっているかどうかは、風次第であろう。
我は姫の膝の上で、紙細工の花の匂いを嗅いだ。作り物の香りの奥に、微かに獣の匂いが残っている。あの狸の、律儀な仕事の証であった。




