番外編 第五話「置き忘れの式」
挿入時間軸:第17話と第18話の間(秋)
一枚の紙片が、透垣の隙間を抜けてきた風に押され、白砂の上へところりと転がった。
畳んだ跡が幾重にも交差し、墨の線が幾何の紋様を描いている。ただの反故ではない。触れずとも分かる、理の残り香が微かに漂っている。
我は前脚をそろえたまま、しばらくその紙片を見下ろした。日の名残がまだ西の空にわずかに滲む頃合いで、屋敷の者たちは誰もこの落とし物に気づいていない。
(あの男、また忘れ物か)
内心でそう断じる。真名井実俊(まない の さねとし)が屋敷を訪れたのは、昼過ぎのことだった。陰陽寮での立場を思い悩み、藤原真白に相談を持ちかけていた姿を、我は縁側の隅から見ていた。二人の会話に割って入る隙を窺いながらも、結局は膝の上で丸くなる以上のことはできず、彼が帰る頃には夕刻を迎えていた。
袖の内から何かがこぼれ落ちる音を、聞き逃してはいなかった。あの時の紙片が、これであろう。
理の眼で見れば、術式はすでに用を終え、抜け殻に近い。だが完全に死んではいない。名残の波が、紙の繊維の奥でわずかに震えている。
鼻先を近づけると、墨と紙の匂いに混じって、乾いた雷の後のような匂いがした。実俊が式神を扱う際にいつも纏う気配だ。
紙片が、風もないのに端から持ち上がった。
我は身を低くした。獲物を前にした猫の姿勢と、警戒する魔導士の姿勢は、存外似通っている。
紙は蛾のように不規則な軌道を描き、地を這うように動いては、また浮き上がる。害意は感じられない。ただ、行き場を失った式が、主の手を求めて彷徨っているだけだ。
放っておけばよい、という判断もあった。式神は本来、術者の許へ還ろうとする性質を持つ。だが姫の部屋のある方角へ、紙片が真っ直ぐ流れていくのを見て、我が尻尾はぴたりと止まった。
あの人の寝所に、正体の知れぬ紙切れを近づけるわけにはいかぬ。
前脚を伸ばし、紙の端を軽く押さえる。触れた瞬間、微かな痺れが肉球を走った。魔力というほどの強さはない。子猫にじゃれつかれた程度の刺激だ。
紙は逃げるように身をよじり、我の爪の間をすり抜けて宙へ舞った。
追う。廊下の角を曲がり、几帳の陰を抜け、灯台の油皿すれすれをかすめる。これでは獲物というより、悪戯者の相手をしているに近い。かつて万象の理を統べた身が、一枚の紙切れに翻弄されている――そう考えると、喉の奥が小さく鳴った。笑いに似た音だった。
庭先に追い詰めたところで、白砂に小さな輪を描いた。土をもって成す結界座。慣れた術ではあるが、これほど微弱な相手に使うのは、いささか大仰に過ぎるとも思う。
輪の内側に入った紙片は、力を失ったようにふわりと落ちた。震えが止み、ただの反故に戻る。
これで良い。あとは持ち主の手に返せばよいだけのこと。
だが、あの男の顔を思い浮かべると、素直に届けてやる気にはなれなかった。実俊が屋敷を訪れるたび、姫の言葉は柔らかくなり、笑みの数も増える。理屈で測れば、ただの幼馴染同士の気安さに過ぎぬはずが、我の中の何かが、それをそのままには見過ごせずにいる。
尻尾の先で紙片を挟み、口にくわえるのは沽券に関わるため、鼻先で転がしながら運ぶ。庭を横切り、沓の傍まで来たところで、そっと下ろした。持ち主が明日、己の忘れ物に気づけばよい。それだけのことだ。
これで十分だ。返した、という事実だけで。
翌朝、庭に出た下男が沓の陰に落ちていた紙片を拾い、首を傾げながら屋敷の内へ持ち帰った。姫がそれを手に取り、しばし眺めてから、文机の隅に丁寧に置く。
「実俊様の、忘れ物かしら」
その声に応える術は、我にはない。縁側で毛繕いをしながら、耳を一つだけ動かした。




