番外編 第四話「正月の厄介者たち」
挿入時間軸:第55話と第56話の間(冬・正月明け)
九助が来た、と気づいたのは、庭の方で水の弾ける音がしたからだった。
我は縁板で丸くなっていた体を起こし、耳を立てた。屋敷の裏手、水甕の並ぶあたりから、べちゃべちゃという湿った足音が近づいてくる。続いて、わらべの甲高い声。
「きゅうすけ! きゅうすけだ!」
「おう! あけましておめでとう!」
正月の挨拶にしては随分と元気のよい声だった。我は半眼で空を見上げた。松の内も終わりかけというのに、まこと河童というものは暦を知らぬらしい。
縁板を降りて庭に回ると、案の定だった。
九助が石灯籠の脇に仁王立ちしていた。頭の皿がてらてらと光り、足跡が白砂に黒く点々と続いている。そのそばでわらべが跳ね回り、九助の腕に抱きついたり離れたりを繰り返していた。どちらもすこぶる騒がしい。
「なに持ってきたの、なに持ってきたの」
「魚! でっかい鯉! お梅さんにって!」
わらべが弾かれたように厨の方へ走っていった。
我は九助と目が合った。河童の子供は我を見るとにかっと笑い、「くろ、あけましておめでとう!」と頭の皿が傾くほど深く頭を下げた。水が飛んだ。我の鼻先に。
……まこと、この子供は距離感というものを知らない。
尻尾だけで返礼を示し、一歩退いた。
厨の奥からお梅の声がした。
「わらべ! また走るんじゃないよ、転ぶよ!」
次いで「転ばない!」という子供の声。その後に、お梅が縁板に出てきた。手には布巾を持ち、顔には苦労の色が浮いている。九助を見て一瞬目を見張り、それから大きく息を吐いた。
「……また来たのかい、河童の坊主」
「お梅さん、鯉持ってきました! 母ちゃんが、いつもお世話になってますって!」
「お世話というか……」と老女が言いかけて、やめた。「まあ、ありがとうよ。大きいね」
「父ちゃんが捕ったんです! 正月だからって特別に!」
「正月はもう終わりかけだよ」
「そうなんですか!」
「そうだよ」
やり取りを傍らで聞いていた我は、内心で少し感心した。九助というのは存外、礼儀をわきまえた河童の子だ。手ぶらで来ないし、大人への挨拶もちゃんとする。問題があるとすれば来る時刻が早く、声が大きく、濡れたまま白砂を踏み荒らすことくらいだ。
「ご飯食べていく?」とわらべが言った。
「食べていく!」と九助が言った。
お梅が空を見た。
我も空を見た。
雲が一つ、ゆっくり西に流れていた。穏やかな冬晴れだった。文句を言う天気ではない。
「……正月料理の残りがあるからね」とお梅は言った。「ちゃんと手を洗ってから上がり。皿の水もしまっておいで。乾かないように布で押さえればいいから」
「はい!」
「わらべ、手伝っておやり」
「うん!」
二者が揃って厨へ消えた。騒がしさが一時、遠のいた。
お梅が我を見下ろした。
「……あんたは食べるかい」
食べる、と我は目を細めた。お梅はため息をついたが、表情が柔らかかった。
厨の中は、案の定、すぐに騒がしくなった。
座敷童子が九助に正月の飾りを見せようとして棚のものを倒し、九助が床をすべって水甕の縁に額をぶつけ、お梅に「だから言ったろ」と叱られた。我は入口の敷居に腰を落とし、その一切を観察した。観察に徹するつもりだった。
が、わらべが「くろも来てよ」と呼んだ。
来い、と言われても厨の中は手狭だ。縁板から見ていた方が合理的である。我はそう判断し、動かなかった。
「くーろ」
再び呼ばれた。
「くーろー」
三度目が来る前に、我は静かに敷居を越えた。魔導王として誇りがどうこうという話は、今は棚上げにする。
厨の隅に落ち着くと、すぐ傍に座敷童子が来て座り込んだ。九助はお梅に手伝いを命じられたのか、渋々といった様子で漬物の甕に蓋をしていた。
「ねえ、くろ」とわらべが小声で言った。
我は耳を向けた。
「きゅうすけ、また来てくれてよかった」
それだけ言って、わらべは満足そうに九助の方を見た。ほかに何か言いたいことがあるわけでもなく、続きもない。ただ、よかった、という一言だった。
我はその言葉を少しの間、頭の中で転がした。
この座敷童子は、屋敷に来て以来、厨を根城に暮らしている。お梅とよく口論するが、喧嘩というより日課のようなものだ。わらべにとって、この屋敷の住人たちは何なのか。家族と呼ぶには軽く、仲間と呼ぶには少し照れがあるような距離感。それがわらべの「また来てくれてよかった」という一言に滲んでいた。
九助も同じかもしれない。川に暮らす妖の子が、わざわざ鯉を抱えて都の屋敷まで来る理由は、魚を届けることだけではあるまい。
妖というのは、意外なほど、居場所を求めるものらしい。
「くろも、ここがすきでしょ」
わらべが聞いた。
我は少し間を置いた。
それから前脚を揃え直し、目を細めた。否定はしなかった。
「くろがすき、って言ったらどうするの?」と九助が後ろから言った。いつの間にか甕の蓋を終えて、こちらに来ていた。
「うれしいに決まってる」
「くろは喋れないじゃん」
「喋らなくても分かるもん」
わらべが得意げに言い、河童の子が「ふーん」と言って我の頭を一度だけ撫でた。遠慮のない手つきだったが、悪意はどこにもなかった。
「また魚持ってくる」と九助が我に言った。「くろ、なに食べたい?」
口がないので答えられないが、まあ鮎でも鮒でもかまわない。我は鼻をひくりとさせた。
「鮎にする!」と九助は一人で決めた。
「わたしにも持ってきて」とわらべが言った。
「わらべは魚食べないじゃん」
「きゅうすけが持ってくるなら食べる」
「…………うん」
九助の返事が少し遅かった。座敷童子は気にした様子もなく新年の飾りの話に移っていたが、我はその間を見ていた。
昼餉は簡素だった。正月料理の残り――田作り(たづくり)と黒豆と、料理番が急ごしらえで作った粥。河童の子は川魚を食べることに慣れているせいか、人の食べ物への好奇心が強く、黒豆を一粒一粒丁寧に味わっていた。わらべは量より種類が好みらしく、少しずつ全部をつまんだ。
我の前には干し鯛の切れ端が置かれた。お梅の心遣いだった。節季らしい魚だ。
「おいしい?」とわらべが聞いた。
我は黙って食べた。おいしかった。
縁板の向こうで、真白の声がした。
「あら、賑やかね。九助も来ているの?」
「来てます!」と元気よく返事した。「鯉を持ってきました!」
「まあ、ありがとう。今日はご一緒できなくてごめんなさいね、少し文の返事を書かなければ」
「はい! またいつでも来ていいですか!」
「もちろん。いつでもいらっしゃい」
真白の声が遠ざかった。
九助が我を見た。「姫君、やさしいね」
鯛を一口食べた。
やさしい、というのは正しい。ただ、そのやさしさが持つ重さについては、この河童の子が思うより少し複雑な話だと知っている。されど今それを語る術も、語る必要もなかった。
昼過ぎに九助が帰った。
「また来ます!」と言いながら、白砂に足跡を残して裏手に消えた。お梅が「次は砂利に入る前に足を拭いておいで」と背中に言った。聞こえていたかどうかは定かでない。
わらべが縁板に出て、九助が消えた方向をしばらく見ていた。
「また来るかな」
「来るだろう」と我は思ったが、声に出す口がない。代わりに縁板に上がり、わらべの傍に腰を下ろした。
しばらく、二者で冬の庭を眺めた。
九助の足跡が白砂に点々と残っていた。お梅が後で直すだろうが、今はまだそのままだった。冬の午後の日差しが低く差し込んで、足跡の縁に細い影を作っていた。
来た者の痕跡が残る庭は、悪くない。
我は目を細めた。
正月の、穏やかな昼下がりだった。




