番外編 第三話「冬の夜の影法師」
挿入時間軸:第24話と第25話の間(冬・初雪前夜)
夜半を過ぎた頃だった。
真白が寝所に引き取り、屋敷の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。我は縁板を伝って表の方へ出た。眠れぬわけではない。ただ、猫の肉体というものは刻が深まると妙に目が冴える。これが猫の習性なのか、かつて魔導王として深更を活動の主軸に置いていた名残なのか、今となっては判じかねる。
外は冷えていた。
息を吸うと、鼻の奥が痛くなる手前の冷気だった。空は雲に覆われ、星も月も見えない。ただ、砂利の白さだけが夜の中で薄く浮いていた。梢が風もないのに小さく揺れている。冬が来る前のこの静けさには、独特の張り詰め方がある。アルメラ帝国では四季というものが今より激しく、冬の到来は理の収縮として明確に感じ取れた。ここ平安の都は、もう少し緩やかに、しかし確実に、冷えていく。
庭の隅に人影があった。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)だ。
家令の装束のまま、白砂の縁に立っていた。動かない。手も下げたまま、顔は庭の奥に向けている。眠れぬにしても、仕事があるにしても、この刻限にこの場所に立つ理由が我には見えなかった。
我は柱の陰で足を止めた。
気配を殺すのは猫の本能だ。意識するまでもなく、爪は砂利に触れず、呼吸は浅くなる。真澄はこちらに気づいていないのか――いや、そんなことはないだろう。この男の気の鋭さは、常から只者ではないと思っていた。それでも視線を向けないということは、放っておく、ということか。
しばらく眺めていた。
真澄は動かなかった。ただ立っていた。人であればそろそろ寒さに耐えかねる刻限だが、僅かな震えもない。半妖の血がそうさせるのか、あるいは単に鍛えられた肉体なのか。どちらにせよ、この男の体の作りは人間のそれとは少し違う。土の理の観点から見れば、彼の気の流れはずいぶん安定していた。外気の冷えに動じない。根を張った木のような、静かな気配。
我は一歩、砂利に降りた。
音が立つのを承知で、あえてそうした。真澄の耳が動いた。気づいていた。やはりそうか。
「……夜歩きは猫の習いでございますか」
低い声だった。こちらを見ることなく言う。我はその方へ歩いた。急がず、しかし迷わずに。
真澄が視線を砂利に落とした。足元まで来たことを、音で捉えているのだろう。黒い体をその横に落ち着けた。立ったまま並ぶのは高さが合わないが、座ればちょうど家令の足元あたりに収まる。
しばらく、どちらも何もしなかった。
冬の夜の空気が、二者の間に淡々と流れた。
「……冷えますな」
独り言か、こちらへ向けた言葉か。判別は難しい。我は耳をわずかに前に向けた。続きを待つ、という意思表示として、これ以上の手段を持たない。
真澄が息を吐いた。白い靄が闇に溶けた。
「この刻限に目が覚めるのは、古い癖でございます。子供の頃から……夜の方が、外が静かでございましたので」
そこで言葉が止まった。
続ける気はないらしかった。我も促さない。人が語る気になるまで待つことは、口のない我には容易い。余計な合いの手を入れる術がないのだから。
庭の奥で何かが動いた。
土の理で気を探ると、小さな野鼠だと分かった。石灯籠の下を横切り、枯れた草の中へ消えていく。真澄もそちらを向いた。彼には見えているのだろう。あの目は、常の人間より夜が利く。
「姫君はお休みでございますか」
問いというより、確認だった。我は尻尾を一度だけ揺らした。真澄が小さく頷く。
それからまた、静かになった。
我は考えていた。
真澄というのは、つかみどころのない人物だ。家令として働く姿は有能で淀みない。真白への忠義は本物だと見ている。されど、その奥に何があるのかは、今の我にはまだ見えない。妖の血を引く半妖として、人と妖の境に生きるということの重さを、この男は体の芯で知っているはずだ。その感覚が時折、彼の言葉の省略に滲む。
言わぬことの多い人間というのは、概して言葉の代わりに何か別のものを蓄えている。
「玄丸殿」
不意に名を呼ばれ、我は耳を立てた。
真澄がこちらを見た。初めて、夜の中で正面から目が合った。暗闇に慣れた人間の目とは違う光の量が、その瞳にある。人にも妖にも、どちらとも言い切れない目だった。
「……あなたは、この屋敷が気に入っておられますか」
奇妙な問いだった。
気に入っているかどうか。この屋敷に来て、まだ三月も経たない。気に入る、気に入らないというより、まだ測りかねている部分の方が多い。
されど。
真白の声は心地よい。お梅の厨は温かい。わらべ(座敷童子)の悪戯は騒がしいが、空虚ではない。この庭の夜は、静かだが孤独ではない。
それをどう答えるか。口がない。尻尾もうまく使えるかどうか。
我は、立ち上がった。
そして真澄の足元から、その衣の裾に向かって、鼻先を押しつけた。猫が人間に行う、数少ない肯定の表現だ。魔導王としての誇りがそれを許すかどうかは、別の話である。
家令が静止した。
少し間があった。それから、かすかに――本当にかすかに、衣の布が動いた。手が下りてきて、我の頭に触れた。撫でるというより、載せる、という動作だった。
「……さようでございますか」
それだけ言って、真澄は手を引いた。
また、静けさが戻った。
我は元の場所に戻り、腰を下ろした。真澄も動かない。二者は再び、並んで庭を眺めた。語ることもなく、しかし先ほどとは少し違う沈黙の質で。
それがどのくらい続いたか。
やがて真澄がひとつ息を吐いて、「冷えますな」ともう一度言った。今度は独り言ではなく、どちらかといえば締めくくりの言葉のようだった。
「お休みなさいませ、玄丸殿」
衣擦れもなく、真澄は縁板へ消えた。影走り(かげばしり)を使ったのかどうかも分からない。ただ、気配がすうと薄れた。
我は一人、庭に残った。
空の雲が、ほんの少しだけ動いた。隙間から細い月が覗いて、砂利の上に淡い影を落とした。指一本分ほどの光だったが、それでも闇が少しだけ薄くなった気がした。
明晩あたり、雪が来るかもしれない。
土の理がそう告げていた。冬の初雪とはいつも、こういう静けさの後に来る。
我は毛並みを一度整えてから、縁板へ戻った。
この屋敷が気に入っているかどうか。
……まあ、悪くはない。




