番外編 第二話「わらべの初仕事」
挿入時間軸:第20話と第21話の間(秋深まり)
厨から、妙な音がした。
盛大に何かが落ちる音と、それに続く甲高い笑い声。我は縁板で丸まっていた前脚を解き、耳を立てた。続いてお梅の怒号が飛んだ。
「こら、またお前か! なんでそこに登るんだい!」
また、とある。つまり今朝が初めてではない、ということだ。
我は腰を上げた。日向は惜しいが、事と次第によってはこちらが動かねばなるまい。
厨の戸口まで来ると、煙と焦げた匂いが鼻を打った。中を覗けば、お梅が腰に手を当てて天井を仰いでいる。その視線の先、梁の上に小さな影が座っていた。わらべ(座敷童子)だ。短い手足をぶらぶらさせ、欠けた椀を両手で抱えている。足元の床には、蓋の外れた甕と、そこから零れた干し柿が散らばっていた。
「降りなさい、降りてきなさいったら」
「やだ」
「やだじゃないよ! その椀はお前のじゃない」
「かえしてあげる。だって、これ、おかゆのにおいがするから」
我はその遣り取りを眺めながら、状況を整理した。
わらべが厨に住み着いてから、まだひと月と少しか。当初は夜中に食べ物を持ち出す程度の悪戯だったが、ここ数日は昼日中から姿を現し、お梅の仕事に首を突っ込みたがるようになった。成長、と言えるかどうか微妙なところだが、少なくとも引きこもる方向ではない。
「おかゆ、作りたい」とわらべが言った。
お梅が一瞬、言葉に詰まった。
「お前に作れるかい」
「できる」
「できないよ、火を使うんだ。子供が触るもんじゃない」
「こどもじゃない。わらべだ」
「同じことだろ!」
我は喉の奥で小さく息を吐いた。まこと、この二者の問答は毎度どこかで詰まる。お梅の言い分は正しい。わらべの言い分も、妖の論理としては一理ある。ただ双方とも、譲る気がない。
梁の上のわらべが我に気づいた。ぱっと顔を輝かせる。
「くろ! くろも、おかゆ食べたいよね?」
押しつけるな、と我は思ったが、口がないので尻尾を一度だけ揺らした。小さな影はそれを肯定と受け取ったらしく、梁から飛び降りた。音もなく、羽のように着地する。妖の跳躍とはかくも見事なものか、と我は少しだけ感心した。
「じゃあ、おしえて。ちゃんと見てるから」
「見てるだけじゃないよ、またちょっかい出すんだろ」
「出さない。出さないから、そばにいていい?」
お梅が困った顔をした。怒鳴り続けるには愛嬌のありすぎる問い方だった。
「……まったく」と老女はついに折れた。「手は出すな。目だけ使え。いいな」
わらべが大きく頷いた。
かくして、奇妙な厨の授業が始まった。
我は戸口の端に腰を下ろし、一応の監視役を引き受けることにした。老女が土間に降りて竈の火を確かめ、米を量る。わらべはその傍らに張り付くように立ち、一挙手一投足を食い入るように見つめていた。子供が料理を覚えようとする光景は、人の世でも妖の世でもさほど変わらぬらしい。
「まず米を研ぐ」とお梅が言いながら、桶に水を張った。「汚れた水が透き通るまで、何度も換える」
「なんで?」
「そうしないと、くさいおかゆになるからさ」
「においがわかるの?」
「分かるよ。年取ると、変な匂いに敏感になるんだ」
わらべが我を見た。「くろも、においわかる?」
我は当然である、というように鼻をひくりとさせた。この程度の動作で通じるのだから、この小さな妖はなかなか直感が鋭い。
研いだ米が鍋に移され、水が注がれた。老女が火加減を見ながら蓋をする。その間、座敷童子は竈の縁に手をかけ、のぞき込もうとした。
「さわるな」
素早い一喝だった。わらべがびくりと引っ込む。
「火が跳ねることがある。顔を近づけるな」
「……わかった」
しゅんとした様子が、普段の飄々(ひょうひょう)とした雰囲気とずいぶん違う。叱られ慣れていないのか、あるいは叱られた意味をちゃんと受け取っているのか。我には判じかねたが、少なくとも素直ではあった。
鍋の中で米粒が膨らみ始め、白い湯気が蓋の隙間から立ち上る。厨全体が温もりと米の甘い香りで満ちてきた。秋の昼間というのは、こういう匂いが妙に似合う。我は知らず、目を細めた。
「塩をひとつまみ入れて、あとは待つだけ」
「どのくらい待つの?」
「焦らないこと。急いでも、早くはできない」
わらべがじっとその場で考えている。理解したのかしていないのか、少し間を置いてから「うん」と言った。
それきり、しばらく厨は静かになった。
火の爆ぜる音と、鍋の中でぐつぐつと煮える音だけが続く。わらべは竈の前に腰を下ろして、揺れる炎を見つめていた。何を思っているのかは分からない。ただ、先ほどまでの騒がしさが嘘のように、その横顔は穏やかだった。
我も、そのまま目を閉じた。
暖かい。足元から伝わる竈の熱が、猫の肉体には過不足ない温度だった。アルメラ帝国では火の理を制御の道具として扱っていたが、こうして誰かの食を作るために使われる火というのは、また別の質感がある。実用の炎と、魔法の炎は、理としては同じ属性でも、そこに宿る意図が違う。ゆえに、発する気が違う。
「できた」
お梅の声で我は目を開けた。
蓋を取ると、白く柔らかなおかゆが湯気を立てていた。わらべが立ち上がり、鍋の中を覗き込む。表情が変わった。今まで見たことのない、驚きとも喜びともつかない顔だった。
「……すごい」
「すごくないよ。米と水と火があれば誰でも作れる」
「でも、においが、さっきとぜんぜんちがう」
「そりゃそうだ。生の米と炊いた米は別物だからね」
わらべが我を振り返った。「くろ、においわかる?」
我は鼻を動かした。確かに、研いだ米の淡い青さとは違う、丸みのある甘い香りが漂っていた。土の理に近い、安定した温もりの気配がある。
「くろにも食べさせてあげたい」とわらべが言った。
「猫は米より魚だよ」とお梅が笑った。「あんたが作りたいなら、まず見ることだ。今日みたいに。手を出すのはもっと後でいい」
「いつ?」
「急くんじゃないよ。焦らないって言ったばかりだろ」
わらべがむっとした顔をした。が、すぐに「……わかった」と繰り返した。先ほどより少し、納得した声に聞こえた。
お梅が椀によそって我の前に置いた。「お前にはこれ」と、脇から小さな干し鮭の切れ端も添えた。
我は鼻先を近づけた。米の甘さと出汁の淡い塩気が混ざっている。猫に与えるものとしては上出来だ。この老女は不器用な優しさの持ち主だと、以前から思っていた。
小さな妖が我の隣に座り込み、自分の椀をじっと見つめていた。
「おかゆって、やわらかいね」
「歯の悪い人や、具合の悪い人のために作るものだからね。柔らかくて当たり前だよ」
「だれかのためのごはん、か」
その一言を、わらべはしばらく繰り返していた。
我は鮭の一片を噛みながら、その横顔を眺めた。何かを学んだときの妖の顔というのは、概して静かだ。声を上げたり手を叩いたりしない。ただ、目の奥のどこかが変わる。
厨の外では、秋風が軒先の乾いた葉を揺らしていた。
しばらくして、わらべが口を開いた。
「お梅、またおしえて」
老女は少し黙った。それから短く「見るだけならな」と答えた。
我は椀の縁から顔を上げ、また目を閉じた。
まこと、この屋敷の住人というのは、なかなか捨てたものではない。




