番外編 第一話「梅雨の客人」
挿入時間軸:第83話と第84話の間(夏・梅雨期)
長雨とは、どこまでも人の都合を無視する現象である。
降り続く梅雨の水音が、屋根板を叩く音が絶えなかった。今宵で六日目。軒先の雫は細い糸を成して地を叩き、砂利の白さを泥色に変えていた。我は縁板の端、柱に背を預ける形で座り、その景色を眺めていた。濡れた空気が毛並みに纏わりつくのを感じるたびに、猫の肉体とはなんと雨に弱いものかと、前世の己の姿を遠く思う。
アルメラ帝国においては、湿期でさえ理の術で制御されていた。農地に必要な量を量り、過不足なく振り分ける。なんと合理的な話であったか。されど今の我には、縁板から一歩も出られぬという現実がある。ふむ。これも猫の宿命と呼ぶべきものだろうか。尻尾を巻きつけ、前脚を揃えて、ひたすら水音を数える。
「玄丸、また外を見ているの」
藤原真白(ふじわら の ましろ)の声がした。几帳越しの柔らかな灯りの中から、彼女は手に縫い物を持ったまま近づいてきた。衣の裾を少し持ち上げ、几帳の端を避ける。その仕草に迷いがなく、雨の日でも心が乱れていないことが見てとれる。
「雨の音って、不思議ね。屋根の上と、砂利の上と、葉の上と……みんな違う音がする」
真白が縁板の端に腰を下ろし、我のすぐ隣に来た。我は少しだけ尻尾の先を揺らした。
感想を述べたくとも口がない。まこと不便極まりないが、今はそれでよかった。
雨音を分析するとは、言霊の素質を持つ者らしい観察である。あの娘は知らず知らずのうちに、音の振動をそれぞれの属性に分解している。金の理に通ずる感覚だと、我は黒い耳をわずかに前に向けた。
しばらくして、屋敷の奥から葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が現れた。常のごとく、衣擦れさえ立てぬ足運びで、梁の影から滑るように廊下を渡ってくる。
「姫君、そろそろ燈台の油を足した方がよろしゅうございます」
「ありがとう、真澄。……ねえ、なにか気になることがある?」
「さほどには。ただ――」
真澄が一瞬、視線を庭の方へ向けた。その目が、灯りの届かぬ雨の暗がりをしばらく追う。
我もそちらを見た。
庭の隅、苔の上に何かがいる。
人の形ではなく、かといって獣でもない。ずんぐりとした輪郭が、濡れた石灯籠の脇に蹲っていた。表面は雨に濡れて黒く光り、まるで砂利の一部のように動かない。されど確かに、それは息をしていた。
客人か、と我は内心で呟いた。
我は耳を伏せた。
屋敷に出入りする妖は、もはや珍しくない。この屋敷はいつの間にか、都の中でも指折りの妖の溜まり場になっていた。ぬらりひょんと語り合った日から日はまだ浅いが、噂とは得体の知れぬ速さで広まるものらしい。理屈で考えれば、妖の間にも情報の網があるはずだ。
「行ってみましょうか」と真白が立った。
「姫君」と真澄が制しかけた。
我が先に縁板を降りていた。
爪で砂利を確かめながら、雨の中を歩く。前脚が一歩進むたびに、水が跳ねる。毛並みが重くなる。まこと猫というものは雨天を想定した構造になっていない。されど、あの蹲る影の気配が――なんとも、弱い。危険の臭いがしない。むしろ、くたびれ果てた何かの臭いがした。
近づくにつれ、輪郭が定まってきた。
小柄な体躯。頭が異様に大きく、目がぎょろりとしている。色は斑の灰で、雨に打たれて肌がてらてらと光っている。腕の先が、妙に長く、指が細い。爪は尖っているが、腰を抱えてうずくまる姿は、ひどく力が抜けていた。
垢嘗だ、と我は即座に判じた。
風呂場や湯殿の垢を舐める妖。人に危害を加えることはなく、むしろ垢を処理するという、実に奇妙な役割を担う存在である。以前ひょうすべ(風呂場に住み着く河童の親戚)と話した際に、同種の習性を持つ妖がいると聞いていた。
それが今、藤原家の庭の隅に蹲っている。
垢嘗は我の気配に気づいて顔を上げた。大きな目が我を見て、びくりと肩を揺らした。
「……猫……? ここの……猫、か……」
声は細く、雨音にほとんど消えかけた。
我は一歩、また一歩と近づいた。敵意を消し、背筋を低くして。前脚の爪を砂利に押しつけず、できるだけ音を立てない歩き方で。
垢嘗の目に、警戒と疲弊が混ざっていた。しかし逃げる気力もないようだった。
「玄丸、大丈夫?」
後ろから真白の声。彼女が庭に降りていた。真澄が無言で傘を差し出しているが、姫君はそれを受け取らずに来ている。その辺の判断の甘さが真白という娘の持ち味でもあり、我が胃を痛める理由でもある。
垢嘗がその顔を見た。
「……人間……ここの……ひと……」
「こんばんは」と真白が膝を折った。雨の中、砂利の上に膝をつく寸前まで腰を落とした。「こんな夜に、どうしたの?」
垢嘗はしばらく黙って、それから観念したように口を開いた。
「……すんでたとこが、こわれて……どこにもいけなくて……この屋敷から、いいにおいがして……きてしまった」
言霊の気配を、妖は感じ取る。特に弱った妖ほど、言霊の温もりに引き寄せられる傾向があることを、我はここ数月で学んでいた。
真白は少し考えてから、背後に立つ家令を振り返った。
「真澄、この子、湯殿に入れてあげてもいいかしら」
「……姫君のご判断に従いまする。ただ」と半妖の家令が一息置いた。「お梅には我が話をつけましょう。湯殿の掃除は得意でございますれば、双方の折り合いもつきましょうでございます」
「お願いね」
かくして、垢嘗はひとまず軒下へ招かれた。
我は毛並みの水気を振るい落としながら、縁板に戻った。葛上真澄が傍らに立つ気配がした。
「……珍しい客でございますな」と彼は低く言った。
我は縁板に腰を落とし、前脚を揃えた。
「この屋敷が妖の溜まり場になったのは、何者かの計算ではあるまいな」と問う気もしたが、口がない。
ただ尻尾だけが、ゆっくりと左右に揺れた。
真澄がそれを見て、ほんの微かに目を細めた。
「……でごさろう、な」
何を答えたのか。その言葉の意味するところを問い返す手段が、今の我にはない。
降り続く雨の中、軒先の雫が砂利の上に不規則な音楽を奏でていた。垢嘗はお梅に連れられて湯殿の方へ消え、姫君が濡れた裾を気にしながら屋敷へ戻っていく。我は一人、縁板の端に座ったまま、その音の重なりをしばらく聴いていた。
金の理の観点から言えば、降りしきる水とは実に多様な振動の集合体である。真白の言う通りだ。屋根、砂利、葉の上――それぞれ、異なる音の層を成している。我がかつて支配した帝国では、それを均一に制御したが、そうすることは本来の豊かさを殺すことでもあったのかもしれない。
ふむ。猫になって初めて気づくことが、まだあるらしい。
尻尾を巻きつけ直した。
まこと、この猫生は予測不能で面白い。
【妖怪図鑑】
■垢嘗
【分類】家屋棲み妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★★☆☆(やや珍しい)
【出現場所】湯殿、風呂場、水回り全般
【特徴】
頭が異様に大きく、目がぎょろりとした小柄な妖怪。体色は灰または斑色で、肌はしっとりと湿っている。爪は尖っているが、攻撃に用いることはほぼない。長い舌を持ち、風呂場や湯殿に溜まった垢や汚れを舐めて食べる。人間には不気味がられることが多いが、実害はなく、むしろ清潔を保つ役割を果たす。
【得意技】
・垢舐め:湯殿の壁や桶の垢を丁寧に舐め取る。その技術は几帳面を超えており、完璧に汚れが落ちる
・気配消し:湯殿の隅に溶け込み、存在をほとんど感じさせない
【弱点】
・乾燥に弱く、雨や湿気のない環境では力が落ちる
・驚かされると縮み上がり、しばらく動けなくなる
・孤独に弱い。住処を追われると急激に弱ってしまう
【生態】
特定の湯殿や風呂場に長く棲みつく習性があり、住処への執着が強い。棲家を失うと途端に弱り、新たな場所を求めて彷徨う。同じく水回りに棲むひょうすべとは相性がよく、役割分担して共存することもある。
【玄丸の評価】
「垢を食べるという生業を人間はたいてい嫌がるが、理として見れば実に合理的な掃除係だ。汚れを分解し循環させる、土の理に近い働きをする。問題があるとすれば、住処を失った際の脆弱さだろう。あれほど弱り果てた姿は、見ていて居心地が悪い。……まあ、真白が拾ってしまった以上、どうなるかは目に見えているが」
【遭遇時の対処法】
驚かせず、静かに様子を見るのが最善。清潔を好む性質であるため、湯殿を提供すると喜んで棲みつく。危害を加えてくることはないが、急に光や大声で脅かすと逃げ場を求めて暴れることがある。
【豆知識】
「垢嘗」の名の通り、その主食は垢である。ただしこれを嫌悪と見るか感謝と見るかで、棲みついた家の運気が変わるという言い伝えがある。丁寧にもてなした家は湯殿が常に清潔に保たれ、家人の肌が美しくなると伝えられる。




