エピローグ「新しい季節」
本編は終了となります。次回からは番外編をお届けしたいと思います。
あれから、また幾つかの春が過ぎた。
都の北山あたりは、昔と変わらぬ静けさの中にある。大路を行き交う牛車の数が増え、陰陽寮の建物が少し広くなったと聞いたが、藤原家の邸の庭だけは、どの季節も変わらず同じ顔をしている。白砂と古木と、石畳。梅の根元の小さな標は、今年も新しい苔をまとっていた。
「げんちゃん、こっちこっち」
縁側から、声が降ってきた。
幼い声だった。まだ「こ」と「き」の区別が怪しく、語尾が丸く転がるような、子供特有の呼びかけ。藤原真白と真名井実俊の間に生まれた娘で、名を小鈴という。三つになったばかりだが、足だけは達者で、朝から庭を駆け回っている。
その声に応じるように、黒猫が縁側へ向かって歩き出した。
玄と呼ばれている。
どこからともなく屋敷に現れて、気がつけば居着いていた。真白が名付けた。一字だけの、短い名。実俊は最初、「猫に人の名のようなものをつけるのか」と眉を寄せたが、今では自分から「飯だぞ」などと声をかけている。
その黒猫は優雅だった。
小鈴が追いかけてもすぐには逃げず、しかし捕まりもしない。ちょうどよい距離を保ちながら、縁側の柱のあたりでようやく腰を落ち着ける。小鈴が転がり込んでくると、尻尾だけを緩やかに揺らして、その小さな手が毛並みに触れるのを許した。
「ふわふわ」
小鈴が満足そうに言う。
玄は目を細める。黒々とした瞳の奥に、何か深いものが宿っている。それが何かを、真白はずっと前から知っていた。知っていて、何も言わない。ただ、この猫が邸にいることを、当たり前のように受け入れている。
庭の隅から、くすくすという笑い声が聞こえた。
座敷童子だった。厨の柱の陰から、丸い頭がのぞいている。小鈴には見えていないようだが、玄の耳だけがぴくりと動いた。座敷童子は玄の視線を受けると、慌てて引っ込んだ。昔からこの調子だ。
風呂場の奥では、水のはねる音がする。ひょうすべ(河童の親戚)が掃除をしているのだろう。垢嘗も今朝から来ていると、女房が少し青い顔で報告していた。この屋敷に出入りする者の顔ぶれは相変わらずで、人間の使用人たちはとうに慣れ、初めて来た者だけが目を丸くする。
真白は縁側に腰を下ろした。
膝に小鈴が乗ってくる。その手には、いつのまにか玄もついてきて、ひざ掛けの端に前足をかけた。
「ねえ」
真白が呼ぶと、猫は顔を上げた。
「今日は機嫌がいいのね」
玄は答えなかった。ただ、鼻先を真白の手のひらに押し当てた。温かかった。小鈴がそれを見て、「げんちゃんも好きなの」と言った。真白はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
好き、という言葉では足りない気がする。いつも。何年経っても。
この猫がそこにいることの、不思議な安堵。離れていた時間の長さと、戻ってきた時の静けさ。それらをまとめて言い表す言葉は、まだ見つかっていない。見つけなくてもいいのかもしれない、とも思う。言葉にならないものを、言霊の血を引く自分が言葉にしないでいる——それが、ある種の誠実さなのだと、今はわかる。
「真白」
実俊が庭から戻ってきた。手に小枝を一本持っている。梅の枯れ枝を剪定していたらしく、袖に白い削り屑がついていた。
「玄がまたそこにいるのか」
「またじゃなくて、ずっといるんです」
「同じことだ」
実俊は縁側に腰を下ろし、小鈴を膝に抱き直した。玄がその動きをじっと見る。実俊の目が、一瞬だけ猫の目と合った。実俊は何も言わなかった。ただ、持っていた小枝を縁側に置いた。玄はそれに鼻を近づけて、すぐに興味を失った。
穏やかな午後だった。
庭の古木が風に揺れ、白砂に影を落とす。梅の根元の標は、今日も苔の中に沈んでいる。小鈴が実俊の膝から降りて、また庭へ走り出す。座敷童子がこそこそとついていく。玄はしばらく縁側にいて、それから何かに気づいたように立ち上がり、庭へ降りた。
白砂の上を、優雅に歩く。
梅の根元のそばで立ち止まり、標の前にしばらく座った。尻尾が、一度だけ、緩やかに揺れた。
真白はその背を見ていた。実俊も、黙って見ていた。
小鈴が「げんちゃーん」と呼ぶ声が庭に響き、玄はそちらへと歩み出した。
物語は、終わらない。
新しい季節が、また巡ってくる。この庭に、この屋敷に、この都に——かつて理と呼ばれたものが、今も脈々と息づいている。姿を変え、名を変え、それでも変わらぬ何かとして。
桜の花びらが一枚、梅の根元に舞い落ちた。
玄はそれを一瞥して、小鈴の後を追った。




