第百五十話【最終話】「春を待つ庭に」
桜の花びらが、庭に落ちていた。
一枚、また一枚と、梅の根元に積もった土の上に舞い降りては、春の風にまた浮き上がる。あの冬から、幾つの季節が巡っただろう。藤原真白はひさしの下に立ち、その動きをただ目で追っていた。
二十を越えていた。
幼いころの面影はまだ眉のあたりに残っているが、声はいくらか落ち着きを帯び、歩き方に迷いが減った。昨秋、真名井実俊と祝言を挙げてから、この屋敷はかつてとは少し違う空気を纏うようになった。それでも庭の白砂はあの頃のままで、古木も、敷かれた石も、変わらずそこにある。
あの木の根元に置かれた小さな標だけが、年々、苔を増やしていた。
「真白殿、外は冷えます。羽織をお持ちいたしましょうか」
背後から真澄の声に似た気配——そう感じたのは一瞬のことで、振り向けば、若い女房がおずおずと立っていた。去年から仕えるようになった娘で、真澄ではない。真澄はもういない。石畳の目地に残った白い光も、春の雨のたびに薄れ、今はもう目に留まることがない。
「いいえ、少しだけ。もう少しだけここにいます」
女房が引き下がる気配。再び庭に向き直った。
桜は今年もよく咲いた。実俊が冬のうちから気にかけ、古木を丁寧に手入れしていた甲斐がある。あの人は口下手だが、手だけはよく動く。大切なものの周りをいつも、黙って整えていく。それがいつしか、真白には温かく映るようになっていた。
かつては、気にもしていなかった。
庭の隅のほうで、何かが動いた。
最初は風かと疑った。桜の花びらが横に流れた、その陰を小さな影が横切った。真白は目を細める。白砂の上を、しかし確かな足音で——黒いものが、こちらへ向かってくる。
幼い黒猫だった。
まだ耳が少し大きく、足もとが覚束ない。白砂に前足を踏み出すたびに少し沈み、そのたびに驚いたように耳を立てる。だがその目は——黒々とした瞳の奥が、不思議な光を宿していた。
その黒猫は真白の足もとで立ち止まった。
見上げてくる。
その眼差しに、真白は息を止めた。知っている——この目を。この、何もかもを見通すような、静かで澄んだ、しかし温かさを秘めた——あの目を。
「……あなたなの?」
声が、震えた。
子猫は答えなかった。ただ、鼻先を少し持ち上げて、真白の袖のにおいを嗅いだ。
「にゃあ」
一声だけ、鳴いた。
真白はしゃがみこんだ。腕を伸ばすと、子猫はためらうことなく、その腕の中に収まった。温かかった。小さな体が、真白の胸の中でわずかに震えている。怖いのではなく、懸命に何かを伝えようとするように。
頬に、やわらかいものが触れた。
子猫が、顔を擦り寄せてきた。
繰り返すように。何度も。
真白の目から、涙が落ちた。桜の花びらが一枚、子猫の黒い背に舞い降りた。
「戻ってきてくれたの」
問いではなかった。
庭の向こう、石畳の先から、くすくすという笑い声が聞こえた気がした。座敷童子のような、軽い足音。それから風呂場の奥からは、水のはねる音。石畳の隅ではくすんだ橙の光が点いて、すぐに消えた。この屋敷の者たちが、少しずつ戻ってきている。
実俊が表から現れた。
手に木の盆を持ち、上に椀が二つ。湯気が立っている。彼は真白の前で立ち止まり、腕の中の黒猫を見て、その目を見た。何も言わなかった。ただ盆を置いて、隣にしゃがみこんだ。
小さな生き物が実俊の手のにおいも嗅いだ。それから、また胸の内に顔を戻した。
「……厄介なお客が来たな」
実俊の声に、苦さはなかった。どこか、懐かしむような響きがあった。
真白は黒猫を抱いたまま、庭を見渡した。白砂は光を含んで輝いている。梅の根元の墓石は苔に覆われて、春の中に沈んでいる。花びらが、三枚、四枚と舞い落ちる。
物語は、続く。
それがこの庭の理だと、真白は子猫の温もりを通じて、ようやく知った。




