第百四十九話「雪の朝」
雪が降っていた。
声もなく、予告もなく。夜の間に積もり始めたのか、夜明けに気づいた者がいたとしても誰も口にしなかった。ただ、白砂の庭が白く覆われ、梅の枝の膨らみに白い笠が載り、縁側の板が冷えた朝として、その日は始まった。
藤原真白(ふじわら の ましろ)は、夜明け前から目が覚めていた。
眠れたのかどうかも、分からなかった。目を閉じていたのに、まぶたの裏に縁側の光景が繰り返し浮かんだ。星の下の静けさ。腕の中の温もりが、あるとき消えたこと。消えた、というより——離れた、というより——ただ、なくなった。それだけのことが、なぜこれほど胸に重く残るのかを、真白は言葉にできなかった。
言葉にできないものがあると、あの黒猫は知っていた。
それを今になって思う。
廊下に出ると、縁側の向こうに白い庭が広がっていた。雪はまだ降り続いていた。粒の細かい、音のない雪だった。
真白は足を止めた。
梅の木を見た。昨夜まで枝の先に膨らみがあった。それは今、白く覆われていて、形だけが雪の下に残っていた。消えたわけではない。ただ、見えなくなっているだけだ。
——そう思ったところで、喉の奥が詰まった。
泣くまいとした。人前でならともかく、誰も見ていない廊下で泣いても仕方がないと思った。されど涙は理屈で止まるものではなく、真白は袖で目を覆って、そのまましばらく動けなかった。
お梅の足音が、厨の方向から聞こえてきた。
気づいて歩みを緩め、傍で止まった。何も言わなかった。ただ、すぐそこに立っていた。袖を下ろすと、お梅は一度だけ肩に手を置き、また厨へ戻っていった。
その背中を見て、真白はもう一度だけ泣いた。
白砂の上に、雪が積もり続けた。
墓標は、庭の奥の梅の根元に作ってあった。
真名井実俊(まない の さねとし)が夜のうちに小さな石を拾い、白砂の上に立ててくれていた。石に文字は刻まれていない。刻もうとして、何と書けばよいか分からなかったのだと、朝になって彼が言った。名前を書くなら「玄丸」か「アゼル」か——どちらも正しく、どちらも足りない気がした、と。
真白は、それを聞いて少し笑った。
「そのままでいい」と彼女は言った。「あの子は、名前じゃなかったから」
実俊は何も言わなかった。黙って頷いた。
午の刻を過ぎた頃、真白は一人で庭に出た。
下駄の底に雪が積もった。足元が白く変わり、踏み出すたびに小さな足跡が生まれた。その跡が、縁側から梅の木まで一本の線を引いた。
墓標の前に立った。
小さな石だった。実俊が選んだのだから、きっと真剣に選んだのだろうと思った。角が少し丸く、灰色に白が混じった色をしていた。雪が上に積もっていた。真白は袖で払おうとして、やめた。払ったところで、また積もる。それでいい気がした。
「……ねえ」と真白は言った。
声が白い息になった。誰も聞いていない庭で、それでも声に出した。
「昨日ね、実俊さんが来てくれた。今日も来ると思う。河童たちは昨夜もずっと垣根の外にいたみたい。お梅も、何も言わないで傍にいてくれた。みんなに、あなたのことが伝わっているの。あなたが何をしていたか、どれだけのものを守っていたか」
声が揺れた。
「あたしは、ずっと知らないふりをしていたね。あなたが疲れていることも、痛そうにしていることも、見えていたのに、見ないようにしていた。怖かったから」
雪が一粒、石の上に落ちた。
「でも——」
真白は膝を折り、石に顔を近づけた。
「あなたと過ごした時間は、ぜんぶ本物だった。言葉が届かなくても、返事がなくても、あなたはいつも、ちゃんと聞いていてくれた。あたしが怖い夢を見たとき。月見の夜に歌を詠んだとき。何でもない昼の縁側で、ただ並んで座っていたとき」
石は答えなかった。
それでも聞こえていると思った。なぜそう思えるのかは分からなかった。ただ、この白い庭が少しも空虚に感じられなかった。何かがまだここにある——その感覚を、言葉で証明する必要はないと思った。
「ずっと忘れない」と真白は言った。「一日も」
それだけ言って、立ち上がった。
足元の雪が、また積もった。
夕刻に、妖怪たちが来た。
最初に現れたのは、川の方向からの気配だった。九助が垣根の外で声をかけ、今日は真白が門を開けた。頭の皿に雪が積もっていた。拭わずに来たのだろう。目が赤かった。
「昨日、間に合わなかった」と彼は言った。「垣根の外まで来たのに」
真白は首を振った。「あなたはいてくれた。それで十分だよ」
黙った。それから深く頭を下げ、庭の奥の梅の木を見た。墓標の石には雪が積もり直していた。
「魚を持ってきた」と九助は言った。「玄丸が好きだったかどうかは分からないけど。猫だから、いいかと思って」
真白は笑った。今日何度目の笑いかを数えなかった。「きっと喜ぶ」
魚は石の前に置かれた。
その後から、気配が続いた。
天狗の頭領が遠く離れた木の梢から頭を下げた。鵺の気配が北の空をかすめていった。鎌鼬たちが庭の外を一度だけ通り過ぎた。一反木綿が空の遠くで翻った。
弔問の形は、人間のそれとは違った。誰も長居しなかった。言葉の多い者も少なかった。ただ、通り過ぎた。そのことが真白には、長い弔問の言葉よりも、何か深いものに感じられた。
妖怪たちは、この都の理の中にいる。玄丸が守ったものの中に、彼らも含まれていた。その理を守った者の死を、彼らは各々の作法で悼んでいた。
日が傾いた頃、実俊が再び来た。
門を入るなり、庭の奥の石と、石の前の魚を見て、一瞬立ち止まった。それから彼女の隣に並んだ。
「来てくれたんだね、みんな」と真白が言った。
「ええ。道を歩いてくる間にも、気配がしていました」と実俊は答えた。「空も、川も」
二人はしばらく、白い庭を並んで見ていた。
雪はすでに止んでいた。空が夕暮れの色になり、白砂の上の雪が橙に染まり始めていた。梅の枝の膨らみが、雪の笠から顔を出していた。昨日までと同じ膨らみが、そこにあった。
「真白殿」と実俊が言った。
「うん」
「玄丸殿は——」と言いかけて、止まった。
真白は実俊の顔を見なかった。庭を見たまま待った。
「……あの方は、幸せだったと思います。論理的な根拠はない。ただ、最後の夜の様子を見て、そう思いました」
真白は答えなかった。
少しの間があって、「あたしもそう思う」と言った。
雪の庭に、二人の白い息が混じって立ち上がった。
夜になった。
真白は縁側に座った。一人だった。実俊は日暮れに帰り、お梅が温めた汁物を置いていった。九助たちはとっくに川へ戻っていた。
庭の石は見えなくなっていた。夜の暗さの中に溶けていた。それでも確かにそこにある。その方向を向いたまま、しばらく座っていた。
冬の星が出た。
昨日と同じ星だった。されど昨日とは、何かが違っていた。昨日は玄丸がいた縁側だった。今日は真白だけがいた。その差が、星の光の中にまで広がっているように見えた。
それでも星は光っていた。
真白は膝の上に手を置いた。何も乗っていない、空っぽの膝だった。指を折って、その形を確かめた。いつか玄丸を抱いていた腕の形が、今も手の内にある気がした。
「……ありがとう」と彼女は言った。
庭の方向へ向けて、小さく。
風が少しだけ吹いて、梅の枝が鳴った。葉のない枝の音は、かすかで、それだけだった。
されど真白は、しばらくその音を聞いていた。
返事だとは思わなかった。返事でなくてもいいと思った。この世の理は、言葉だけで動くのではないと、あの黒猫に教わったから。
縁側の板が冷えた。真白は立ち上がり、屋敷の中へ戻っていった。
白い庭に、足跡だけが残った。
一本の線が、縁側から梅の根元まで伸びていた。それは雪の中に刻まれ、夜の間にまた少しずつ埋もれていくはずだったが、今夜は降らなかった。
朝になれば、また日が差す。枝の膨らみが、また少しずつ大きくなる。白砂が戻る。それは変わらず続く。
ただ、玄丸はいない。
その事実と、これからずっと生きていくのだ、と——真白はまだ知らなかった。知るのはもう少し先のことだった。今夜はまだ、庭の石を見た後の静けさの中に、彼女はいた。




