第百四十八話「さよなら、玄丸(後編)」
温かいものに包まれたまま、我は眠った。
どれほどの刻が経ったのか、分からない。輿の揺れが遠い夢のようだった。石畳の冷たさも、傷の熱も、いつの間にか遠ざかっていた。眠りの底は、かつてアゼルとして生きた異世界の記憶にも似た色をしていたが、今度は違った。暗くなかった。
真白の腕の中に在ったからだろう、と我は後から思った。
目を覚ましたのは、屋敷の縁側の陽だまりの中だった。
朝の光が薄い雲を通して差し込み、板張りの上に白い長方形を描いていた。我はその光の中に横たわっていた。傍らに畳まれた布が枕代わりになっていて、それが真白の手によるものだと分かった。繊維の向きが、彼女の指の整え方そのものだったから。
右脇腹の傷は、まだ熱を持っていた。
前足を動かそうとして、動かなかった。動かないのではなく、動かすための何かが、もう残っていなかった。理の底の話ではない。もっと根本的な、肉の話だった。
ふむ。
目だけを動かして周囲を確かめた。庭の白砂は朝の光を受けて静かに輝いていた。梅の木が一本、冬の空に向かって枝を伸ばしていた。葉はない。それでも枝の先に小さな膨らみがあった。まだ花には遠いが、確かに何かが準備されている。
その膨らみを、我はしばらく見ていた。
春が来る。我がいなくなっても、あの木は花をつける。白砂に花びらが落ちる。真白がそれを見る——その連なりを想像しても、我の心に乱れはなかった。
乱れがないことが、かえって奇妙だった。
かつての我ならば、世界の理を掌中に収めようとした。万象を制御し、秩序を維持し、崩壊を防ごうとした。その果てに世界を壊した。今の我は何も制御していない。ただ縁側に横たわり、梅の枝の膨らみを眺めている。されど今の方が、世界の理に近い場所にいる気がした。
廊下の端で、人の気配がした。
真白だった。
足音を殺して歩いてくる。我を起こすまいとしているのか、あるいは我が目覚めているかどうかを確かめながら近づくのか。我は耳を一度だけ動かした。それで伝わる、と分かっていた。
真白が縁側に腰を下ろした。
膝を揃え、我の横に手をついて、顔を覗き込む。目が合った。
「おはよう」と彼女は言った。声に無理はなかった。泣いた後の人間の声は独特の乾きを帯びるが、今の真白の声にはそれがあった。夜の間に、泣いていたのだろう。
我はまばたきをした。
真白が小さく笑った。昨日の夜明けの笑いより、少しだけ柔らかかった。
「眠れた?」
我は目を細めた。それが答えだと、もう説明しなくても彼女は知っている。
二人の間に、しばらく言葉のない時間が流れた。庭の梅の木が風に枝を揺らし、白砂の上に細い影を落とした。遠くで鳥が鳴いた。屋敷の奥から、厨の方向に朝の匂いがした。炊煙の気配と、米の香り。お梅が朝餉を整えているのだろう。この屋敷に来て以来、毎朝続いてきた匂いだった。
真白が手を伸ばし、我の額に触れた。
掌が、額から頬へ、耳の後ろへと移っていく。毛並みに沿った撫で方だった。我の喉が、微かに鳴った。鳴らそうとしたのではない。ただ、鳴った。
「昨夜から、ずっと考えていたの」と真白が言った。
我は耳を立てた。
「あなたが何者なのかを、あたしはずっと知らないふりをしていた。……ううん、正確には違う。知ろうとしなかった。あなたがただの猫じゃないことは、最初から分かっていたから。知ってしまったら、怖くなる気がして」
声が途切れた。
梅の枝が、また揺れた。
「でも、もう言わないといけない気がして」
真白の手が止まった。耳の後ろに、掌が当たったままだった。
「あなたは、ずっと守ってくれていたね。あたしのことも、この都のことも。誰にも言えないまま、一人で」
視線を動かさなかった。
言えないのではない、と我は内心で言い返した。言う術がないのだ——されど今は、その区別が些細なことに思えた。結果は同じだった。真白には何一つ言葉を渡せないまま、今日まで来た。
「ねえ、玄丸」
真白が顔を近づけた。目が、我の目を正面から見ていた。
「あなたに会えて、良かった。本当に、良かった」
声が揺れた。
「あなたのことを、ずっと忘れない。一日も、忘れない」
涙が、目から落ちた。今度はこぼれるのを待っていない。ただ、落ちた。
我の胸の中で何かが動いた。名前のつけようがない何かが。理の名も、五行の属性も持たない、ただの温かさが。
この感覚を、我はかつて経験したことがなかった。
アゼルとして生きた時代、世界の頂点に立ち、すべてを制御していると信じていた。されどその世界のどこにも、このようなものはなかった。力があれば手に入れられると思っていたものが、力を失い、言葉を失い、ただ猫一匹として縁側に横たわった今になって、ようやく触れられた。
この都に来て、何を学んだか——と問われれば、今の我には答えがある。
理とは、掌と掌が触れる距離にあるものだ。
「ねえ」と真白が続けた。声に泣き笑いが混じっていた。「聞こえている?」
我は尻尾を一度だけ動かした。
聞こえている。すべて聞こえている——それ以上は伝えられないが、伝わっていると信じた。言霊の感応は、言葉の外にも働く。あの夜、界境で二つの理が重なった感触を、互いに覚えているはずだった。
彼女が笑った。泣きながら笑った。
「良かった」
その声が、縁側の陽だまりに溶けた。
午の刻になる頃、真名井実俊(まない の さねとし)が来た。
いつもの陰陽師装束ではなく、少し普段着に近い格好だった。縁側の外から真白に声をかけ、我を一度見た。目が合うと、彼は小さく頭を下げた。挨拶のような、礼のような——どちらとも取れる所作だった。
「昨夜の封印は、完全に定着しています」と彼は言った。「晴元殿の検分も終わりました。都の界境に、乱れはない」
「そう」と真白が答えた。「ありがとう、実俊さん」
しばらく、そこに立っていた。何か言いたいことがあるのに、言えないでいる——そういう間だった。やがて彼は我を見て、口を開いた。
「玄丸殿。……御礼を、言わせてください」
我は耳を傾けた。
「あなたがいなければ、この都はなかった。真白殿も、我も。それは理の計算ではなく、確かなことです」
実俊らしい言い方だ、と我は思った。礼を感情ではなく確認として述べる。それが彼の誠実さだった。
彼を見た。まばたきをした。
それで十分だった。実俊も分かったらしく、小さく息を吐いた。
夕暮れが来た頃、河童たちの気配が庭の外にした。
垣根の向こうから、水の匂いが漂ってきた。九助の声が、小声で何かを言っていた。直接入ってくるのを遠慮しているのだと分かった。真白が気づいて、門の方向へ歩いていく。
我は縁側から庭を見た。
白砂の上に、夕の影が長く伸びていた。梅の枝の影が、砂の上に模様を作っていた。砂利の目地に残る、かつて真澄が置いていった銀の光の名残が、今日は橙色に見えた。
九助と真白の声が、垣根の向こうで続いていた。
何を話しているのかは聞こえなかったが、九助が泣いているのは分かった。河童は泣くとき頭の皿の水が揺れる——などという話を、以前聞いた覚えがある。それが本当かどうかは確かめようがないが、彼の声の詰まり方からして、泣いているのは間違いなかった。
梅の枝の膨らみを、もう一度見た。
あの小さな膨らみが花になる頃、ここにはいない。それを九助は知っているのか、あるいは勘で感じているのか——いずれにしても、彼の泣き方は正しかった。正しい泣き方というものがあるとすれば。
真白が戻ってきた。
目が赤かった。垣根の向こうで、二人で泣いていたのだろう。彼女は縁側に戻って我の傍らに座り、何も言わなかった。
我も何も言えなかった。
夜が来た。
真白は縁側から離れなかった。途中で実俊が温かい汁物を持ってきて、彼女に飲ませた。我の傍には小さな水の器が置かれたが、飲む力が出なかった。それよりも、真白の体温が傍にある方が、よかった。
空に星が出た。
冬の星は透き通っている。アゼルとして生きた頃は星を「座標軸」として使っていた。今の我には計算ができない。ただ、美しいと、そう見ていた。
人間が星を詠むのは、理論ではなく——こういうことか、と我は今更ながら理解した。歌人が月を詠み、風を惜しみ、散る花を悲しむのは、消えるものを知っているからだ。消えると知っているから、今夜の星が光る。
真白がまた、我を撫でた。
「眠っていいよ」と彼女は言った。
目を閉じた。
意識が薄れゆく中で、再びあの声が聞こえた気がした。
「失うことを、感じられましたか」
我は心の中で、静かに微笑んだ。
ああ、感じた。失うことは、これほどまでに胸が苦しく、そして、愛おしいものだった。
お前がくれたこの罰は、我にとって唯一の、そして最高の救いだった。
喉が、最後にもう一度だけ鳴った。
——と、我は思った。言葉にはならなかった。ならなかったが、鳴らした喉の振動の中に、彼女の名は確かにあった。
——ありがとう、真白殿。
我が知ったこの世界の理のうち、最も名状しがたく、最も確かなものの名を、我はついぞ言葉にできなかった。されど、それで良かった。言葉にならないものが世界にあることを、我はこの猫の生で初めて学んだ。
それが最後の学びだったとすれば、悪くない。
縁側の陽だまりは夜になっていた。
真白の腕が、我をそっと抱いていた。
星の下で、黒猫は眠るように息を引き取った。




