第百四十七話「さよなら、玄丸(前編)」
「玄丸。……玄丸」
真白の声が、頭の上から降ってきた。
夜明けの空気はまだ冷たく、石畳の硬さが四つの掌に伝わってくる。我は伏したまま顔を上げなかった。上げようとすれば首が震えた。それだけのことに、これほどの力が要るとは。かつて世界の理を掌中に収めた我が、今は一枚の石畳に押さえ込まれている——その事実を、我はさして嘆かなかった。
使い果たしたのだ。それだけのことだった。
「ねえ、返事をして。せめて耳だけでも動かして」
声が揺れていた。泣いているのではない。泣くまいとしている者の声だ。我は右の耳だけを傾けた。それが今の我にできる最大の応答だった。
真白の手が背に乗った。爪が立つわけでもなく、ただ温かいものが触れる。その重さが、我が体の輪郭を確かめさせてくれた。
東の空の端が白んでいた。鳥の声がどこかの木立から上がり、石畳の目地に残った光は夜明けの色に溶けはじめていた。真澄が最後に置いていったものが、朝の光の中でようやく落ち着こうとしている。
少し離れた場所に、真名井実俊(まない の さねとし)が座っていた。式盤を膝に置き、石畳を見つめたまま動かない。晴元の指揮のもとで動いていた陰陽師たちは、封印の完成を確かめると静かに引き始めた。都の気配が、少しずつ元の厚みを取り戻していく。
「終わったんだね」と真白が言った。問いかけではなかった。自分の中に落としてゆく言葉だった。
我の尾がわずかに揺れた。それだけで答えとした。
終わった。我が永劫炉の残滓と知らぬまま対峙し、知りながら語らず、最後まで独りで抱えた業が、今宵ようやく形をなくした。真白の言霊が最後の鍵であったことを、彼女自身はどこまで理解しているだろうか。
「あなたは、ずっと知っていたの」
静かな声だった。
我は視線を石畳に向けたまま動かさなかった。
「……最初から、この都に何が来るのか。そして、どうしなければならないのかも」
答えられない。答える術がない。それは我が猫に転じた日から変わらぬ制約だ。されど今は、その制約が厚い幕のように感じられた。言葉を持つことが、かえって人の距離を生む——かつての世界でアゼルとして生きた我が、最後に辿り着いた皮肉な理論だ。
真白が膝を折り、顔を我に近づけた。
瞳が濡れていた。泣いているのではなかった。涙は目の縁に溜まったまま、こぼれることを待っていた。
「答えなくていい」と彼女は言った。「あなたは言葉を持たない。ずっと前から知っていた。でも——」
声が途切れた。
我は視線を上げた。今の我の首では、それだけで肩の筋が軋んだ。されど目だけは動く。真白の顔を、この角度から見上げる。
彼女の目が、我の目を見ていた。
何かを探していた。いや、探しているのではない。すでに見えているものを確かめていた。あの夜、彼女の言霊が我の五行と共鳴した瞬間、二つの理が一度だけ重なった。あの感触を、彼女もまた覚えているのだろう。
「あなたは、ただの猫じゃなかった」
我の耳が動いた。
「最初から分かっていたけど、確かめなかった。……確かめたくなかったの、きっと」
真白が小さく笑った。それは悲しみを内側に畳んだ笑いで、玄丸を拾い上げた夜の彼女とは別の顔だった。あの頃の真白は世界を疑わなかった。今の彼女は世界を知った上で、それでも笑う術を持っていた。
成長、などという安易な言葉では釣り合わない。
これは代償だ。彼女が界境に触れ、言霊の力を使い、真澄を失い、何人かの人の泣き顔を見て、その全部を引き受けた果てに残ったものだ。
我の体が、ひどく重かった。
石畳の冷たさが腹の底まで伝わってくる。右脇腹の傷が熱を持ったままで、前足の指がうまく開かなかった。理の底は完全に空だった。木の理も、土の理も、水の理も——すべて使い果たした。残っているのは、この毛皮に包まれた肉と、頭の中で動き続ける思念だけだ。
まこと、贅沢な使い方をしたものだ。
さしもの魔導王も、最後は猫一匹分の余力すら持てなかった。
「少し、眠れる?」と真白が訊いた。「ここは寒い。屋敷に帰ろう」
我は目を細めた。
帰る。その言葉の重さを、今初めてきちんと量った気がした。あの藤原の屋敷は、我が平安の都に降り立って以来ずっと帰る場所であり続けた。庭の白砂の手触り、縁側から見える夕映え、真白が読む物語の声。それらが我の理の底を静かに満たしてきた。
尻尾をわずかに動かした。
肯定とは言えない。されど否定でもない、ただの揺れだった。
真白がそれを見て、今度は笑わなかった。目の縁に溜まっていたものが、一粒だけ石畳に落ちた。
実俊が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「真白殿」と彼は言った。声に迷いがなかった。「輿を手配しています。玄丸殿も……一緒に連れて帰れるように」
その呼び方を、彼が口にする。いつからそう変わったのかを、我は正確には覚えていない。最初は妖と疑い、次に得体の知れない協力者として扱い、やがて同志として口を開くようになった。その変化を、我はずっと面白く見ていた。
「ありがとう、実俊さん」と真白が言った。
彼は一度だけ頷き、我を見た。
目が合った。
彼の視線に、問いはなかった。ただ何かを確かめるような、静かな眼差しだった。我はまばたきをした。それが我の答えだった。実俊はもう一度小さく頷き、踵を返した。
夜明けの光が広がりつつあった。
石畳の目地の白い輝きが、朝の色に馴染んでいく。界境の裂け目があった場所には、もう何も残っていなかった。空気が澄んでいた。都の遠い喧騒が、朝の準備を始める音とともに戻ってきた。
真白が我を抱き上げた。
腕の中は温かかった。右脇腹が痛んだが、それを上回る温もりがあった。彼女の鼓動が肋骨を通じて伝わってくる。規則正しく、少しだけ速い。
——我の鼓動も、それに合わせて少し速くなった。
理の計算には乗らない変化だ。乗せる必要もない。ただ、事実として、そうだった。
「帰ろう」と真白が言った。「ゆっくり、休んで」
都の外れで、天狗たちが翼をたたんだ気配がした。河童の一族が川へ戻る水音が、遠くから届いた。妖怪たちも知っているのだろう、今宵が終わったことを。
輿の幕が上げられた。
真白が乗り込むとき、一度だけ後ろを振り返った。何を見ていたのかは分からない。真澄がいた場所か、それとも界境の消えた空だったか。
我には確かめる術がなかった。
ただ、真白の腕の中で、目を閉じた。
まだ終わっていない。終わりは、もう少し先にある——そう理解しながら、我は眠りの縁に向かって、ゆっくりと引き込まれていった。




