↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【本編完結】平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
最終章:永劫炉との戦い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
146/236

第百四十五話「猫の選択」

かつて我は、世界を天秤に乗せたことがある。


アルメラ魔導帝国の最奥、永劫炉(えいごうろ)の前に立ったあの夜のことだ。数万の命と引き換えに世界の理(ことわり)を組み替える——そういう選択を、あの頃は迷わず「計算の範疇」と呼んだ。感情を持たぬ天秤。重さしか見ぬ眼。それが万象の王の矜持であると、自らに言い聞かせ続けた。


今、同じ問いが目の前にある。


石畳(いしだたみ)の上に伏したまま、我は前足の震えを押し殺した。右脇腹の傷が鈍く疼く。理の底は水瓶が干上がるように空になり、かろうじて残った光が肋骨の内側で揺れている。その光が何であるかを、我は長い間「魔力の残滓(ざんし)」と分析してきた。


だが、違う。


真白(ましろ)が隣に膝をついている。彼女の指が我の背に触れている——軽く、確かめるように、まるで壊れ物を扱うように。その体温が毛並みを通じて伝わるたびに、理の残光がわずかに揺れた。


肋骨の内側で灯っているのは、魔力ではない。


「……泣いているのか」


その声は低く、問いかけとも確認ともつかない。石畳の目地に残る光の線——真澄(ますみ)が消えた場所——を見下ろしながら彼女は呟いた。月光を受けてその線は銀色に輝き続けていた。風が止まっても、炎が消えても、その光だけは動かなかった。


実俊(さねとし)が真白の背後に控えていた。言葉を持たない男になっていた。理詰めで物事を組み立てる陰陽師見習いが、今夜ばかりは式盤(しきばん)を持つ手を下ろしていた。彼が何も言わないことが、この夜の重さを証明していた。


尾を一度だけ動かした。


石畳の冷たさが腹から体に染み上がってくる。傷が疼く。それよりも深いところで別の何かが疼いていた。肋の下、理が枯れかけた場所の、さらに奥——そこに在るものに、我はずっと名前をつけずにいた。


「玄丸(くろまろ)」


真白が我の名を呼んだ。


それだけだった。続きはなかった。だが声の中に、彼女が長い夜の間ずっと堪えてきたものが滲んでいた。彼女は泣いていなかった。泣き終わったのか、泣くことを後回しにしているのか、我には判じかねた。ただ、その声が我の耳に届いた瞬間、肋の奥の光が揺れた。


揺れた。


——これは天理回環(てんりかいかん)ではない。


脳裏に一度だけ像が浮かんだ。五行(ごぎょう)すべてを同時に循環させる、世界の骨格に触れる術。一度振るえば永劫炉(えいごうろ)の残滓を根ごと消すことができる。それは事実だ。そして同じく事実として——あの術は世界を巻き込む。前世で証明済みだ。


我は像を流した。


水が器を満たすように、答えはすでに出ていた。天秤ではなく、選択として。計算ではなく、意志として。


永劫炉の残滓はまだある。核の脈動は真澄の血と言霊の結界が止めたが、根は消えていない。都の地の下に張り付いた根。それを枯らすには、我が残るすべての理を注ぎ込むしかない。


それが何を意味するかを、我は理解している。


理の底が空になれば、猫の肉体はもたない。


——構わぬ。


思念の中でそう決めた瞬間、妙なことが起きた。恐怖がなかった。後悔もなかった。あったのはひどく静かな確信だけで、それはアルメラ時代の冷徹さとは似て非なるものだった。あの頃の我は「損失がない」ゆえに恐れなかった。今の我は——守りたいものがある、ゆえに恐れなかった。


真白の指が我の耳の後ろに触れた。


無意識の仕草だったのだろう。彼女の意識は今も石畳の光に向かっていた。それでも指は動いた。猫を撫でる人間の、刷り込まれた優しさのように、指先が毛並みを辿った。


我は目を閉じた。


この一年余り——いや、今この世で生きた一切(いっさい)を、脳裏で一度だけ繰った。飢えて倒れていた夜明けの路地。抱き上げられた時の体温。真白が月を見て歌を詠む声。実俊が我を「妖」と見定めようと目を細める顔。真澄が長廊下の影に立って、何も言わず頷いたあの夜。河童の子が我の尾を掴んで笑った川辺。鵺(ぬえ)が暗い空から降りてきた夜の重さ。


それらすべてが、今ここに在る。


平安の都に生きた者の記憶として。黒猫の身に刻まれた理として。


——君と出会えて、本当に良かった。


誰に向けた思念かは、我自身が一番よく知っていた。


真白が顔を上げた。何かを感じ取ったのかもしれない。彼女はしばらく我を見つめ、それから——まるで言葉を選ぶように間を置いて——小さく息を吐いた。


「一緒にいてくれる?」


問いではなかった。答えを求めていなかった。この夜を、ただ二人で過ごしたいという、それだけの声だった。


我は尾をゆるやかに一度振った。


それが答えだった。


月光が石畳の目地の線を照らし続けていた。真澄が消えた場所は今も輝いていた。光は静かで、嘆きでも慰めでもなく、ただそこに在った。


我は傷を押さえながら腹を地に落ち着け、真白の膝元に頭を寄せた。


理の底が空に近い。残された光がいくばくかあるかは、明日になれば計れる。いや——明日を待つことなく、今夜のうちに動かねばなるまい。


だが今この刻(とき)だけは。


喉の奥で、音にならぬ何かが揺れた。鳴き声ではない。振動でもない。もっと深いところから来るもの——かつて万象の王と呼ばれた魂が、初めて「守れた」と認めた瞬間の、言葉にならない余韻だった。


実俊が静かに立ち上がる気配がした。彼は何も言わずに数歩退いた。陰陽師として、あるいは人として、今この場に必要な間合いを理解する男だった。


風が戻ってきた。


北からの夜風が都の通りを渡り、石畳の上の光の線をゆらとひとかすめた。光は消えなかった。かすめられて、むしろ少し強くなったように見えた。


真白がその光を見た。


我もその光を見た。


言葉はなかった。それで十分だった。


夜はまだ深く、明朝(みょうちょう)が来るまでに決めなければならぬことがある。されど今、我の前足は真白の膝のそばに在り、その指が静かに毛並みに触れていた。


肋の奥で、最後の光が静かに燃えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。