第百四十四話「真澄の献身(後編)」
石畳の上に、光が広がっていた。
それは炎ではなかった。月光でもなかった。何と呼ぶべきか分からぬ、青みがかった白い光が、真澄の腕から滲み出て、足元の石の目地に沿って流れていた。水が低いところへ向かうように、あるいは根が土の隙間を縫うように、光は静かに、しかし確かな意志を持って広がっていった。
我は三歩離れた場所から、それを見ていた。
動けなかった。体力のせいではなかった。この光の前では、何かが近づくことを許さなかった。古い古い、葛上の血の理が、界を作っていた。
真澄の顔に、表情はなかった。
痛みも、恐れも、決意の昂ぶりすらも見えなかった。ただ、何かを数えているような、静かな目だった。夜が幾重にも積み重なって人の形をとったら、こういう顔になるかもしれぬ、と我は思った。あの男はずっとそういう存在だった。屋敷の影に溶け込み、誰よりも早く気配を察し、誰にも気取られずに動く。半妖として生まれたことを嘆いた夜が、幾十幾百あったろうか。それでも今夜だけは、その血が世界に向かって開かれていた。
青白い輝きが上へ伸び始めた。
足元から立ち上がり、その腕を包み、やがて肩へ、首へと昇っていく。人の輪郭が、少しずつその中に溶けていく。それは消えることではなく、拡散することに近かった。器に入っていた何かが、器を解いてどこかへ流れ出していくような。
「真澄っ」
真白の声が割れた。
駆け出そうとした足を、真澄の視線が止めた。言葉ではなかった。ただ目を向けただけだった。だがその目が言っていた。ここまでは来てはならない、と。
真白は止まった。唇を噛んで、止まった。
光の中で、真澄の右手が動いた。
ゆっくりと、指を伸ばした。上空へ向けて。核のある方角へ向けて。都の南、内裏の上空に浮かぶあの歪んだ脈動へ向けて。
我には見えた。
光の筋が、手の先から空へ向かって伸びていくのが。それは界境を隔てる膜を、内側からなぞっていた。人の言霊が外から押したその膜を、葛上の血が裏から撫でている。鍵穴に鍵を差し込むような、精密で、静かな作業だった。
核が、揺れた。
一度、大きく。
次いで、細かく、細かく。まるで泣いているようだった、とは思いたくなかったが、そうとしか見えなかった。永劫炉の核は収縮を繰り返し、その度に光が弱まり、また戻った。戻るたびに、先ほどより小さくなった。
上空で、天狗たちの翼が揃って停まった。
河童の唸りが途絶えた。
鵺が鳴くのを止めた。
都が、一瞬、息を呑んだ。
その静寂の中で、真澄の光だけが動いていた。核の脈動に合わせて、伸び縮みし、応じ、絡まり、締めていく。締めるというより、包む、という方が近かった。葛の蔓が木に巻きつくように、あるいは水が岩を磨くように、少しずつ、少しずつ。
「……美しい」と誰かが呟いた。
真名井実俊(まない の さねとし)だった。いつの間にか、我の傍らに立っていた。目が上空に向いたまま、声が出てしまったという様子だった。続く言葉はなかった。それで十分だった。
光が、最後に一度、大きく広がった。
核を中心に、同心円を描くように、青白い波紋が都の上空を走った。我の毛が、根元から逆立った。これは威圧ではなかった。もっと静かな何か。世界の膜が、何かを通過させるときに立てる音のような。
そして。
核が、消えた。
跡形もなく。音もなく。光の渦が一瞬あって、それも散って、夜空がただそこにあった。都の南に、何もない夜空が。
我は目を細めた。
消えた、と確かめるために見ていたが、確かに消えていた。永劫炉の核が吸収し続けていた脈動が、言霊と葛上の血によって、ついに止まった。
ただし。
真澄がいた場所にも、何もなかった。
石畳だけがあった。光の通った跡が、細い線状に石の目地を伝っていた。それだけだった。
真白が一歩、踏み出した。
それから、もう一歩。石畳の前に立って、膝をついた。膝をついて、その線の一本に、指先で触れた。
「……真澄」
声は小さかった。呼びかけというより、確かめることばだった。
返事はなかった。
それは分かっていた。彼女も分かっていた。指が石の上に置かれたまま、動かなかった。
我は歩いた。
前足が痛んだ。脇腹が引きつった。それでも三歩、四歩と歩いて、膝の傍に座った。
尾を、その手の甲に当てた。
ただそれだけだった。何かを伝えようとしたわけではなかった。言葉にできることは何もなかった。慰めなど持ち合わせていなかった。魔導王の知識も、五行の理も、この石畳の前では役に立たなかった。
我にできることは、ここにいることだけだった。
真白は泣いていた。音を立てずに泣いていた。肩が揺れ、指が石の上の光の跡を、何度もなぞった。
我は動かなかった。
都の上空に、星があった。
雲が流れ、月が出た。欠けた月だった。真澄が消えた夜の月は、こんな形をしていたのかと、我は見上げながら思った。あの男がいた時間のことを、何故か今夜より明確に思い出せなかった。それが不思議だった。人はいなくなってから、その輪郭を正確に持つ。
実俊が、真白の後ろに膝をついた。
何も言わなかった。ただ、そこにいた。
天狗の頭領が、音もなく高度を下げて、遠巻きに地面に降り立った。河童たちの唸りはもう聞こえなかった。鵺も、いつの間にか声を止めていた。都の夜が、ただ静まっていた。
戦いが終わった夜の静けさではなかった。
何かを見送った後の静けさだった。
我は真白の傍で、目を閉じた。
閉じた目の裏に、真澄の顔があった。小さく頭を下げて、上空へ手を伸ばした、あの顔。感情の起伏のない、しかし何十年分もの何かを持った、あの目。
「どうか、お幸せに」と言ったとき、あの男は少しだけ微笑んでいたかもしれなかった。
確かめようとして、もう確かめられなかった。
真白の指が、我の背に触れた。
石の上から手を持ち上げて、我の毛並みを、一度だけなぞった。それから、また石の上へ戻った。
我はそのまま、動かなかった。
動かなくていい夜だった。
今夜は、ここにいることが全てだった。何かをすることでも、何かを考えることでもなく、ただこの石畳の前で、失われた者のあった場所を、二人で見ていることが。
月が、少し高くなった。
欠けた月だったが、明るかった。
石畳の目地に残る光の線が、月光を受けて、ごくかすかに輝いていた。葛上の血の残滓が、まだそこにあった。消えずに、ある。
我は目を開けた。
その線を、しばらく見た。
いなくなっても、通った跡は残る。形は変わっても、理は消えない。それが慰めになるかどうかは分からなかった。だが今夜の我には、それだけが確かなことだった。
真白が、また泣いた。
今度は音が出た。
我は動かなかった。ただ、尾を一度、弧を描くように動かした。それが今の我に唯一できることだったが、それで良かった。言葉よりも、理よりも、この夜に必要なのはそういうものだった。
月が、雲に入った。
都が、暗くなった。
それでも、石畳の線だけは光っていた。




