第百四十三話「真澄の献身(前編)」
血の匂いが、夜気に混じった。
獣の血でも怨霊のそれでもない。もっと深いところから来る、古い古い何かの匂い。葛の根が何百年も土を抱いて腐れ落ち、それでもなお土の中に残る記憶のような――そういう匂いだった。
我は真白の腕の中で、鼻先をわずかに持ち上げた。
傷のある脇腹が引きつる。前足に力を入れようとして、また抜ける。いとも容易く、まるで初めから力など持ったことがないかのように。我の理の底は、今やほとんど砂だ。砂原を掘っても水は出ぬ。出るのは砂ばかり。
だが、その匂いだけは、はっきりと嗅ぎ取れた。
「……真澄、」
真白が、腕の中の我を抱えたまま後ろを振り返った。声が低かった。問うというより、確かめるような呼び方だった。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は、少し離れた場所に立っていた。
内裏の南、開けた石畳の端。天狗たちが空を巡り、鵺の声がまだ夜に漂っている。上空の核は、真白の言霊によって一時的に脈動を落としたが、消えてはいない。夜が深まるにつれ、その光が再び濃くなりつつある気配を、我は皮膚で感じていた。
真澄は、そちらを見ていなかった。
視線は内裏の方角でも、核の方角でもなく、ただ足元の石畳に落ちていた。右手の指が、左の袖口を静かに押さえていた。何かを確かめるように。あるいは、もう確かめることを終えたように。
真名井実俊(まない の さねとし)が横に並んだ。
「葛上殿。何を――」
「後方へお下がりを」と真澄は言った。声に感情の起伏はなかった。ただ、いつもより一音低かった。「……下がれ。陰陽師の皆様を後方へ。姫様の傍から離していただきたい」
実俊が眉を寄せた。「何故です」
「今から、少々騒がしくなる。……案ずるな」
騒がしく、という言葉の選び方が、あの男にしては妙だった。我は尾の先を一度、静かに動かした。真白の腕が、我を抱く力をわずかに強めた。彼女も何かを感じ取っている。
実俊はしばらくその顔を見ていたが、やがて陰陽師たちの方へ歩き出した。振り返りながら、「……分かりました。ただし、遠くはなりません」と言い残した。
三人だけが残った。
「真澄」と真白がもう一度呼んだ。今度は問いではなかった。
家令はゆっくりと袖をまくった。
月光の下に、腕が現れた。白い。人のそれと変わらぬ白さだが、内側に何かが透けて見えるような、奇妙な白さだった。脈の筋に沿って、細い光の線が走っている。星の欠片を皮膚の下に縫い込んだような、人の肉体にはありえない輝きだった。
妖の血、と我は内心で呟いた。
葛上一族が秘してきたもの。影に溶け込む力の根。半妖として生きるために、人としての皮を纏い続けてきた男の、最も奥にある何か。
「姫様」と低い声がした。「少し前から、分かっておりました」
「なにを」
「言霊の結界は、外から押すだけでは足りませぬ。内から鍵を差し込む者が要りますでござろう。界境を隔てる膜というものは、人の声では届かぬ層を持ちます。妖の血だけが、その層を溶かせます」
真白は黙っていた。我も動かなかった。
「我ら葛上の一族が代々秘してきたのは、ほかでもない。こういうときのためでございます」
嘘ではない、と我は思った。真澄は嘘をつくとき、顎の角度がわずかに変わる。今は変わっていない。あの男は数百年前から続く何かを背負って生まれ、それをただ粛々と果たそうとしている。
「あなたは、どうなるの」と真白が訊いた。
真澄の口元が、かすかに動いた。笑みと呼ぶには小さすぎる動きだった。
「妖の血を境界へ注ぐということは――少し、難しい話でございますが」
「難しい話でいい。教えて」
「この腕の中にあるものを、理の膜へ解き放つということでございます。血は器を離れた後、元の形には戻りませぬ。葛上の一族の血は特に、流れ出れば長くは……」
「戻れなくなるということ?」
家令は答えなかった。答えないことが、答えだった。
真白の腕が、我をきつく抱いた。身動きはしなかった。傷が疼いていたが、それより、この場の空気の重さの方が体を押さえていた。
「では、駄目よ」声が揺れた。「あなたなしで、私はここへ来られなかった。あなたがいたから、この屋敷は守られていた。あなたが――」
「姫様」
真澄の声が、初めて少し温かくなった。
「我がここに仕えたのは、命じられたからではございません。仕えたかったからでございます。姫様が笑っておられる屋敷が、好きでございました」
真白が何かを言おうとして、言葉に詰まった。
「都が残れば、屋敷も残ります。屋敷が残れば、姫様の笑顔も残りますでござろう。ならば、何も惜しくはございません」
我は真白の腕から抜け出そうとした。前足に力が入らず、一度ずり落ちそうになったが、石畳の上に何とか四肢を着けた。真白が「玄丸」と低く呼んだが、我は構わず歩いた。
三歩。それが限界だった。
真澄の足元に、我は座った。
見上げる。
家令は我を見下ろした。いつもと変わらぬ、無表情に近い顔だった。だが目の奥に、何か――長い時間をかけて積み上げてきたものが、静かに燃えているのが見えた。
尾を一度、左右に振った。
御苦労、と言えなかった。言えるはずもなかった。だから尾を振った。それだけのことだったが、伝わった気がした。
真澄は小さく頭を下げた。
そして、真白の方へ向き直った。
「姫様」
声が、まっすぐだった。
「どうか、お幸せに」
真白の口から息が漏れた。泣いてはいなかった。泣くまいとして、唇を引き結んでいた。
「絶対に、帰ってきてね」
真澄は答えなかった。
返事の代わりに、左袖をもう一度整え、姿勢を正した。それから我に一瞥をくれた。正確には視線を一瞬だけ我に向け、すぐに核のある方角へ目を移した。その目が、星を縫った腕と同じ光を帯びはじめた。
夜気が変わった。
石畳の隙間から、何か古いものが這い出してくるような気配。葛の根の香りが一層濃くなり、影という影が真澄の足元へ集まり始めた。
我は動けなかった。動いてはならない、とも理解していた。
ただ見ていた。
この瞬間を、この男の背中を、我は目に刻んだ。魔導王として生きた年月の中で、命を賭けた者たちを幾人も見てきた。だがこれほど静かな覚悟は、かつて見たことがなかった。
真澄の腕から、光が滲み始めた。




