第百四十二話「妖怪たちの声」
北の空から、声が来た。
最初に気づいたのは天狗だった。
大路の上空を旋回していた五体のうち、頭領格の一体が翼をすぼめ、急速に高度を落とした。何かを聞いている、というより何かを受け取っている——その動きを、玄丸は真白の腕の中から見上げた。
頭領が叫んだ。
「都の声が、届いている」
高く、風を割るような叫びだった。空の上から大路の端まで、その言葉が落ちてきた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が頭を上げ、無言で北を見た。
玄丸の毛が、また逆立った。
今度は恐れではなかった。
核の上空に向かって昇っていた人の声の流れに、別の振動が混じった。細く、歪で、人の言葉とは明らかに異なる波だ。水の気をまとったような震え。川の底を流れる、何か古いものの共鳴。
河童の響きだ、と玄丸は理解した。
大路の南——おそらく鴨川の方角——から、低く響く唸りが重なり合っている。個別には聞き取れないが、束になると腹の底に届くほどの振動になる。一族は水の気の網を張り続けていたが、今夜はその網ごと唸りを放っている。
人の言葉でも、呪でもない。
ただ、生きているものが発する、形のない振動だ。
核の脈動が、また乱れた。
「真名井実俊(まない の さねとし)殿」
真澄が低く呼んだ。振り向く気配がした。
「符を使う必要は、もはやないかもしれませぬ。ただ、陰陽師たちの声を——」
実俊は一瞬、目を細めた。理屈を組み立てようとして、組み立てられなかった顔だ。それでも彼は振り向き、後方に控える陰陽師の列に向かって大きく呼ばわった。
「符は仕舞え。口を開け。何でもいい、詞を出せ」
陰陽師たちがざわめいた。前例のない指示だ、という困惑が波になって伝わってくる。
それでも、一人が口を開いた。
星辰観測の呪文ではなかった。きわめて平凡な、師に教えを乞う言葉だった。次の者が続いた。今度は何かを数える声だった。また別の者が、低く歌うような音を出した。揃っていない。方向もばらばらだ。それが、今夜は正しかった。
玄丸は空を見た。
核の上部で、光の筋が一本、内側に引き込まれようとして——引き込まれなかった。
吸収しきれずに、外へ弾かれた。
その瞬間、西の空から何かが来た。
速い。
翼のある影が七つ、八つ、弧を描いて都の上空に入ってきた。鵺だ。頭領が翼を広げたまま旋回し、腹の底から声を絞り出した。猿の叫びでも狸の唸りでもない——複数の獣の声が混ざり合った、あの異形の鳴き声だ。
以前から都の外縁を飛んで吸収パターンを乱し続けていたあの群れが、今夜は内側に入ってきた。
吸収の波長が崩れる、と玄丸は読んだ。核は定形の振動しか吸えない。鵺の声は定形を持たない。河童の声も、陰陽師の不揃いな言葉も、大路の民の声も——すべてが非定形だ。それが幾層にも重なって核を包めば、吸収機構そのものが詰まる。
ぬらりひょんが現れたのは、その時だった。
どこから来たのかわからない。いつの間にか、大路の中央に立っていた。老人の姿で、杖も持たず、ただ薄く笑っている。玄丸が目を向けると、その目がこちらを見た。
何も言わない。
その代わり、口を開いた。
声ではなかった。音だった。言葉の形を持たない、低く長い音。腹の奥から引き出したような、年老いた妖怪が蓄えた年月そのものが鳴っているような音。
都の夜に、その音が溶けていった。
核がまた揺れた。今度は横に——吸い込もうとする方向が定まらず、脈動が二回、続けて空振りした。
「北三町の辻にも、声が広がっておりますでございます」
真澄が言った。
「南の大路に続いて、東の市の通りでも火が灯りましたでござろう。民の声が、四方から——」
真白は何も言わなかった。
玄丸は彼女の腕の力が変わったことに気づいた。強く抱いているわけではない。ただ、確かめるように、指先に力がかかった。そして彼女の胸が、深く息を吸った。
波が、また変わった。
真白の声は言葉を持たなかった。歌ですらなかった。ただの——ただの声だった。だがその声が大路の声の中に入った瞬間、何かが揃った。完全に揃ったわけではない。でたらめは依然としてでたらめで、不揃いは不揃いのままだった。それでも、複数の川が合流するように、流れに大きさが生まれた。
天狗の翼が空気を叩いた。
鵺が声を合わせた。
河童の振動が大きくなった。
鎌鼬が三頭、核の外縁を走り回り、旋風を起こして吸収の道筋を切り刻んだ。火車が南から炎の尾を引いて上昇し、核の下面を舐めるように通過した。それは攻撃ではなく、振動の追加だった。定形を持たない熱の揺らめき。
上空の渦が、悲鳴を上げた。
悲鳴という言葉が正確かどうかわからないが、そうとしか言いようがなかった。上空の渦が急速に収縮し、光の筋がいくつも外へ溢れ、吸い込もうとする方向を次々と変えながら、どれにも収束できずにいた。
玄丸は残った理の糸を、もう一度細く絞った。
金の理だ。
もはや鈴声を放てるほどの量はない。術と呼べる規模でもない。それでも、喉の振動の素地になる微細な共鳴なら、まだ出せる。波動の方向だけを——民の声が、妖怪の声が、真白の声が向かっている先へ、針の穴ほどの通り道を整えるだけの、最後の干渉。
音が重なった。
どこまでが人の声で、どこからが妖怪の声か、もはや区別がつかなかった。子供の「おかえり」が混じり、老爺の呟きが混じり、陰陽師の不揃いな詞が混じり、天狗の叫びが混じり、鵺の異形の鳴き声が混じり、ぬらりひょんの年月の音が混じった。
核の脈動が、止まった。
一瞬だけ。
だがその一瞬に、渦の中心が内側から割れるような光が生じた。吸収しようとして何も吸えない、という状態が最高点に達した時の、あの白い爆ぜ方だ。
玄丸は目を細めた。
これは封印ではない。
核を消したわけでもない。吸収機構を一時的に飽和させただけで、炉の根は依然として界境の向こうにある。
それでも——
人の声と妖怪の声が同じ夜に重なって、同じものに向かった。目的があったわけではない。術を使ったわけでもない。ただ、それぞれが声を出した。生きているから声が出た。その声が、束になった。
形のない波が、形のある力を一時止めた。
玄丸の耳に、大路の響きが届いていた。子供の呼び掛け。老人の呟き。女の詞。男の音。その中に天狗の翼音が混じり、鵺の異形の響きが混じり、河童の振動が混じっている。
人と妖が一つの夜に、一つの場所に声を出している。
以前にも似たことはあった。
百の妖怪が宴を開いた夜も、都の片隅で人と妖が同じ酒を飲んだ夜も、互いを知っている者同士が場を共にしていた。
今夜は違う。
互いを知らない者たちが、それぞれの理由で声を出した。そしてその声が、別々のまま、合流した。
合流した先に、力があった。
それは魔導でも言霊術でも陰陽の法でもない。名前がない。我がアルメラで理論化した体系のどこにも、これに対応する名称はない。
玄丸は真白の腕の中で、上空を見続けた。
核はまだある。戦いは終わっていない。
だがこの夜に起きたことを、理の言葉ではなく、別の何かとして記憶した。
言葉にするとすれば、それはただ——
生きているものが声を出すという、それだけのことだ。
ぬらりひょんが、いつの間にか消えていた。
核の脈動が、再び始まった。今度は以前より小さく、間隔が長く、それでも続いている。
真澄が静かに言った。
「今夜は、ここまでござろう」




