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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百三十九話「天理回環の誘惑」

扉というものは、閉じているとき最も重い。


それは木の板でも、石の壁でも同じだ。開いている戸には抵抗がない。だが閉じた戸には、閉じ続けようとする何かが宿る。


我の内側に、そういう扉がある。


右脇腹の傷が熱を持つたびに、その扉が軋む。夜が深くなるほど、軋みは大きくなる。今夜は特に酷い。内裏南の空に浮かぶ核が脈動するたびに、まるで呼応するように、扉の向こうで何かが動く音がする。


真白ましろの腕の中で、我は目を閉じた。


閉じた目の裏に、光の渦が見える。五行の理が同時に回転する、あの感覚。アゼルとして生きた時代に一度だけ解き放った、最も危険な術の記憶だ。


天理回環てんりかいかん


木と火と土と金と水、すべての理を同一の軸に束ね、一点に収束させる。世界の根幹そのものに干渉するその術は、理の階位として「極」の域に位置する。我が七つの大魔法の頂点に置いた、唯一の禁術だ。


使えば、核を封じることができる。おそらく。


問題は、その先だ。


かつてアルメラ帝国の空でこの術を解き放ったとき、世界の理は三日で崩壊した。術そのものの威力ではない。五行すべてが同時に乱れたとき、世界という構造が自重に耐えられなくなる。土台を五本同時に引き抜けば、いかなる建物も崩れる。それと同じことが、理の次元でも起きる。


今の核が「吸収」するのは都の一部だ。だが天理回環が起こす崩壊は、都ではなく、この世界そのものを巻き込む。


我は静かに、その計算を繰り返している。


傷が疼く。尾が地に触れている。真白の衣の温もりだけが確かな感触として残っている。


「玄丸」


声が来た。穏やかだったが、その穏やかさが逆に我の耳に刺さった。泣きそうになるのを堪えているときの人間は、大抵こういう声を出す。


視線を上げると、彼女の目が我を見ていた。


夜の中でも白く見える顔だった。涙はまだ流れていない。だが目の縁が、かすかに赤い。


「あなた、何かを考えている」


断定だった。問いではなく。


真白はいつからか、我の沈黙の種類を読む力を持っていた。尾が動かないとき、瞳孔がわずかに収縮するとき、耳が後ろに傾くとき——それぞれに意味があると、彼女は経験で知っている。


我は視線を逸らさなかった。逸らせば、彼女はそれを答えとして読む。


「前に、庭の砂に線を引いて術を説明してくれたことがあったでしょう」


低い声で、真白は言った。


「あのとき、あなたは教えてくれなかったものがあった。全部教えてくれているようで、一つだけ、決して触れなかったものが」


我は動かなかった。


「今、それを考えているの?」


北の空から風が来た。ぬえの鳴き声が遠くに聞こえる。外縁で飛び続けているのだろう。風には河童かっぱの気配が混じっている。水の網を張り直しているはずだ。


核は今も、南の空で動いている。


「教えて」と真白は言った。「隠さないで、教えて」


腕の力が、わずかに増した。それが懇願だと我は知っている。


しばし、考えた。


教えるべきか。いや、教えることに意味はあるか。彼女に知らせたところで、術の構造を理解することは不可能だ。人の感覚器官で把握できる理の階位ではない。ならば告げることは、彼女の心を乱すだけかもしれない。


だが。


かつて我は、情報を与えないことを「合理的判断」と呼んでいた。相手を守る方法として選んでいた。だがこの屋敷で人の情を学びながら気づいたことがある。知ることを奪われた者は、知ることができないまま恐れるしかない。それは守護ではなく、ただの遮断だ。


令嬢の目を、見た。


瞳が揺れている。揺れながらも、逸らさない。彼女はいつもそうだ。怖いときほど、目を開けたままでいようとする。


我は前足をゆっくりと彼女の膝に置いた。


押し当てるように。それが我にできる唯一の、応答の形だった。


真白が息を呑んだ。


「ある」と彼女は言った。「あるのね、最後の手段が」


我は動かない。


「それを使えば、あれを止められる」


動かない。


「でも、使えない理由がある」


目を細めた。それが、答えだった。


真白は少しの間、黙っていた。南の空を見上げた。核の光が彼女の顔を青白く照らしている。風が彼女の髪を乱した。


「世界が、壊れるから?」


我は目を逸らした。


答えではない。だが否定もしなかった。


「そう」と真白は言った。小さく、静かに。「そういうことか」


葛上真澄(かずらがみ の ますみ)の気配が近づいた。影を引きずるようにして、二人の傍らに立つ。


「核の動きが変わりましてございます」と家令は言った。「吸収の速度が落ちているでござろう。鵺殿の鳴き声が効いているかと存じますが、長くは続かないでございましょう」


真名井実俊(まない の さねとし)が符を抱えて走ってきた。膝に泥がついている。また符を置いてきたのだろう。


晴元はるもと様が集結を命じています。あと半刻で符の配置が終わります」と彼は言った。それから我を見た。「……玄丸殿、何か方策は」


我は答えない。答えられない。


だが陰陽師は目を逸らさなかった。理を測ろうとする、学者の目だ。


「あなたが知っている手があるはずだ」と彼は続けた。「それを使わない理由があるなら、聞かせてほしい。すべてとは言わない。輪郭だけでもいい」


真澄がそちらへ目を向けた。視線で何かを制しようとしたが、陰陽師は退かなかった。


我は令嬢のほうへ視線を移した。


彼女が我を見た。


彼女の目はもう赤くない。別の何かに変わっている。考えている目だ。術のことでも、逃げ道のことでも、おそらくない。もっと別の、まだ形のないものを探している目だ。


「あなたを失いたくない」と真白は言った。


大きな声ではなかった。実俊にも真澄にも届いたかもしれない。だがそれを気にする様子が、彼女にはなかった。


「あの術を使って世界が壊れても、あなたを失いたくない、なんて言いたいわけじゃない」と彼女は続けた。「そういうことじゃなくて」


言葉を選んでいる。


「ほかの道があるはずだと思ってる。あなたが生きていて、世界もこのままで、そういう道が」


我の内側で、扉が軋んだ。


今度は違う軋み方だった。


押し開けようとする力ではなく——引き留めようとする何かが、扉の向こうで押し返している感覚。真白の声の振動が、我の理の回路に触れた。言霊の、ごく微細な波紋だ。


術として発動しているわけではない。ただ彼女が言葉を持っているという、その事実だけが、空気を揺らしている。


ふいに、我は気づいた。


核は理を吸収する。あらゆる理の振動を、無差別に。だが真白の言霊は、理とは少し違う種類の振動をしている。言霊は「意味」と「音」が不可分に結びついた波だ。純粋な魔力の波とは構造が異なる。


だとすれば。


我は目を細めた。


天理回環が「世界の理そのもの」に干渉するのに対し、言霊は「世界の表面に刻まれた言葉の痕跡」に触れる。根を揺らすのではなく、葉を動かすようなものだ。


その差が、何かの鍵になるかもしれない。


まだ輪郭しかない。計算が追いつかない。傷が疼いて、思考が途切れる。


真白の腕が、我をもう少し強く抱えた。


「今夜は、まだ使わないで」と彼女は言った。


我は動かなかった。


だがそれが、答えだった。


扉は今夜も、閉じたままでいる。

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