第百四十話「言霊の大結界(準備)」
符が破れた。
真名井実俊(まない の さねとし)が置いた二十枚のうち、南列の六枚が同時に消えた。紙の燃える臭いではない。ただ空気の中に溶けて、なくなった。核が脈動するたびに、術として機能する前に吸収されている。
「吸収速度が上がっています」と陰陽師は言った。声に震えはなかったが、膝の上で指が止まっていた。「半刻もちません。符は残り四十枚」
安倍晴元(あべ の はるもと)が空を仰いだ。
陰陽寮長官の目は冷静だった。恐れているのではなく、計算している目だ。
「位置を変える」と彼は言った。「核から距離を取り、陣を広げる。吸収範囲の外側に網を張れ」
陰陽師たちが散った。
我は真白の腕の中で、その動きを目で追った。右脇腹がまだ熱い。前足に力を入れると傷が引きつる感覚がある。だが頭だけは動く。
核の吸収には一定の有効距離がある。それは、昨夜からの戦闘ですでに観測できている。距離を二町以上取れば、符の消耗速度は落ちる。晴元はそれを知っている。
だが距離を取るほど、陣は拡散する。薄くなる。
網を広げれば、糸は細くなる。
我は南の空に目を向けた。
夜明けまで、まだ間がある。空の底が白みはじめるにはもう半刻ほどかかるだろう。核は夜の間に吸収量を増す。月光との関係ではなく、人が眠ることで言霊の振動が減るためだ。眠っている人間は声を出さない。言葉を持たない時間帯に、核は活発になる。
これも昨夜からの観測で確認した。
ならば逆を突けば——人が言葉を持ち続ければ、核の活性は鈍るかもしれない。
ただし、それは我一人の言霊ではない。真白一人の言霊でもない。
腕の中で、我は尾をわずかに動かした。
真白が気づいた。彼女はいつも気づく。
「また考えている」と彼女は言った。昨夜と同じ言葉だったが、声の色が違った。昨夜は怖れを含んでいた。今は、追いかけようとしている。
我は南の空を見た。核を。それから真白を見た。
彼女の目が動いた。南の空から浮かぶ光へ、そして我へと順に追って、止まった。
「あれが、人の声を嫌う」と真白はゆっくり言った。言葉を探しながら繋いでいる。「あなたが昨夜気づいたのは、そういうこと?」
我は動かなかった。
否定もしなかった。
真白の眉が、わずかに動いた。考えている顔だ。言霊の素質を持つ者が理の構造に触れるときの、あの目になっている。
「人の声」と彼女は繰り返した。「私一人じゃなくて」
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が近づいた。気配を消した歩き方で、いつの間にか横に立っている。
「姫君」と家令は言った。「深夜でございます。都の民はほぼ眠りについているでござろう」
「起こせる?」
問いは単純だった。だが真澄は少し間を置いた。
「眠れている者は少ないでございましょう」と家令は答えた。「核の光は都のどこからでも見えますゆえ。民は恐れて戸を閉じておりますが、眠れてはいないかと存じます。起こすというより——」
「声をかければ出てくる、かもしれない」と真白は続けた。
真澄は答えなかった。否定もしなかった。
実俊が戻ってきた。符を新たに手に持っている。表情が硬い。
「符の追加配置が終わりました。ただ——」と彼は言いかけて、真白の顔を見た。「何かお考えですか」
「民に頼もうと思っている」と令嬢は言った。「声を貸してほしいと」
実俊の手が止まった。
「……具体的には」
「わからない」と真白は言った。正直に。「まだ形になっていない。でも、あなたが昨夜言っていたでしょう。核は理を吸収する、と。だったら理ではないものを——言葉を、ぶつけたら」
「言霊は魔力とは構造が違う」と実俊は言った。静かに。考えながら。「理論上は、吸収されにくい可能性がある。だが民一人の言霊では規模が」
「一人じゃなければ」
沈黙。
我は実俊の顔を見た。陰陽師として学んだ知識が、今この瞬間に組み替えられていく表情だった。確信ではない。だが否定もできない、という顔だ。
「……試算したことはない」と彼は言った。「前例がない。民全員の声を同時に集めた事例は」
「ないから、やる」と真白は言った。
迷いがなかった。
我は彼女を見た。
かつて、言葉の力などというものは我の理論体系に存在しなかった。アルメラの魔導は波動を計測し、属性を分類し、出力を最適化する学問だ。民衆の感情など、計算に入れる変数ではなかった。
だがここに来て、我は見てきた。真白の詠んだ歌が庭の気を動かした夜を。実俊の呼びかけが式神の暴走を鎮めた昼を。口無し女が言葉を取り戻した瞬間に何かが変わったことを。
言霊は情動と音が結びついた波だ。純粋な魔力より、ずっと不安定で、ずっと多様で——そして吸収装置が想定していない種類の振動をしている可能性がある。
核は我が設計した。永劫炉として。
設計者として言える。あの装置は、魔力の波動を識別して吸収するように作られている。言霊のような「意味と感情が不可分に絡んだ不定形の波」は、吸収対象のパターンに合致しない可能性がある。
可能性、だ。確証ではない。
だが今夜、他に手がない。
我は前足をわずかに持ち上げた。
傷が引きつった。それでも、真白の膝の上で体を起こした。
彼女が我を見た。
我は南の空を見た。核を。それから、都の方角を見た。まだ眠れずにいるはずの民がいる方向を。
真白が息を吸った。
「行く」と彼女は言った。
それは決意の声だった。
真澄がすでに動いていた。影の中から大路の方向へ向かう準備をしている。実俊が符を懐に戻した。晴元はまだ指示を出しているが、こちらの動きを視界に入れている。
真白が立ち上がった。我を抱いたまま。
「一緒に来て」と彼女は言った。我に向けて。
当然のことを言う、と我は思った。
行かない理由がない。
大路は広い。夜明け前の闇の中で、松明がいくつか燃えている。戸口に明かりを出している家がある。眠れずに外を見ている者がいる。核の光は空から消えていない。
真白は大路の中央に立った。
両手で我を抱えたまま、まっすぐに立った。
「聞こえる方に、お願いがあります」
声は大きくなかった。だが通った。夜の空気の中で、言霊の素質を持つ者の声は、遠くまで届く性質がある。
戸が開いた。一軒、二軒。
松明を持った男が出てきた。子供を背負った女が出てきた。老翁が杖を突いて出てきた。
「あの光が消えない。都に何かが起きている。それは皆さん、もうご存じだと思います」
真白は続けた。
「私には術がありません。陰陽師でもなく、法師でもない。ただ言葉だけを持っています」
人が増えた。十人、二十人。隣の通りからも足音が聞こえる。
「皆さんの言葉を、貸してほしいのです」
我は真白の腕の中で、空の核を見ていた。
脈動が続いている。吸収が続いている。だが——わずかに、速度が落ちているように見えた。
気のせいかもしれない。真白が声を出し始めてから、ほんの半刻も経っていない。効果を観測するには早すぎる。
だがこれは確かだ。
民が出てきている。闇の中で、声が増えようとしている。
我は目を細めた。
これが答えだ、と思った。
思ったのではない——確信した。
天理回環は世界の根幹を揺らす。それは一点に全力を叩き込む術だ。しかし核が「あらゆる理の振動を吸収する」ならば、一点からの力は大きければ大きいほど、より多く吸われる。
逆に——無数の小さな声が、それぞれ異なる周波数で、異なる方向から振動したとしたら。
吸収の「対象パターン」が識別できなくなる。
核の設計に、そこまでの想定はなかった。アルメラ帝国に、無数の者が同時に声を合わせるという発想がなかった。魔導王一人の力で世界を動かすことを前提に設計された装置だ。
庶民の声など、変数に入れていなかった。
その欠陥を、真白は今夜、ついた。
我は傷のある脇腹に力を入れた。痛かった。だが尾を立てた。
真澄が我を横目に見た。「玄丸殿」と彼は言った。声を落として。「無理をなさいますな」
我は家令の目を見た。
それから、真白を見た。
大路に人が集まっている。三十人、五十人。子供が泣いている声がした。老婆が何かを呟いている声がした。若い男の、張りのある声がした。
真白が口を開いた。
「一緒に、声を出してください」
都の夜に、言葉が生まれ始めた。
それはまだ、小さかった。ばらばらで、揃っておらず、それぞれが違う言葉を言っている。だが——核の吸収リズムが、わずかに乱れた。
我の感知が確かなら、それは確かに乱れた。
まだ足りない。この規模では、夜明けまで持たない。都全体に広げなければならない。
だが始まった。
始まりは、いつもこれだけだ。一人が立って、声を出して、隣に届く。
真白の体が少し震えているのが伝わった。寒さではない。怖れでもない。
これが彼女のやり方だ、と我は思った。
術でも、力でも、魔導でもない。ただ言葉で人に呼びかけて、人が動く。それが言霊巫女の血の本来の意味なのかもしれない。
声が増えていく。
核は今も、南の空にある。
だが夜は、少しずつ変わり始めていた。




