第百三十八話「妖怪たちの奮戦」
北西の空に、天狗の翼が五つ並んだ。
それが戦の始まりの形だった。
翼が並ぶのを我は真白の腕の中から見ていた。右の脇腹はまだ痛んでいた。前足に力は戻っていなかった。だが目は動いた。頭は動いた。戦の地図を描くことくらいは、今の我にもできた。
天狗たちが急降下した。五本の突風が、夜空の核へ向けて一斉に叩き込まれた。
核が揺れた。
揺れた、というより、吸った。天狗の突風がそのまま核の縁に吸い込まれていった。それでも天狗たちは止まらなかった。一撃が吸われると、また次の突風を打ち込んだ。吸われた。また打った。吸われた。それでも打ち続けた。
「喰らえ」
上空から、低く、短い声が落ちてきた。
天狗の頭領だった。銀の羽を持つ古い天狗で、さきの算段の折にぬらりひょんが呼び寄せた者だ。彼は突風ではなく、山の風そのものを両腕で束ねていた。それを核に向けて一気に解き放った。
轟音がした。
今夜初めて、核が大きく揺れた。縁の輝きが乱れ、吸収の脈動が一瞬、乱れた。
一瞬だけだった。
核はすぐに安定した。そして揺れた分だけ、周囲の理を余分に吸い込んだ。大きくなった。ほんの少し、確かに大きくなった。
天狗の頭領が舌打ちをする気配が、上空から降りてきた。
「東からじゃ」
声が来た。川の匂いがした。
河童の長老だった。九助ではない、年かさの者が、二十ほどの仲間を引き連れて東の水路から上がってきていた。彼らの頭の皿には夜露が満ちており、月明かりを受けてわずかに光っていた。長老は一言うなずくと、仲間たちへ向けて両手を振った。
一族が散開した。
核の周囲に、水を帯びた気の網を張り始めた。河童の理は水の理に近い。しかし陰陽師の夢鏡のような精緻さはなく、むしろ大網で押さえ込むような荒々しい力だった。網が核の縁に絡みついた。縁の輝きが、今度は外側に引っ張られるような歪みを見せた。
吸収が、少し、鈍った。
少しだけ、確かに鈍った。
「今ぞ」
晴元の声が響いた。陰陽師たちが一斉に符を展開した。網の隙間から、符の力が核の縁へ打ち込まれた。核の表面に、細い亀裂のような光が走った。走って、消えた。
消えた、ということは、届いた、ということだ。
我はそれを見て、頭の中で計算を始めた。
永劫炉の核は、吸収することで攻撃を無効化する。しかし吸収の処理速度には限界がある。複数方向から同時に力を叩き込めば、処理が間に合わない瞬間が生じる。天狗と河童と陰陽師が三方から同時に打った、あの刹那がそれだった。
だが問題があった。
核は賢かった。同じ手は、二度目には通じない。
「鵺どの」
ぬらりひょんの声だった。白髪の老翁のような姿で、しかし底知れない重みを持つ妖怪の総大将が、我の近くの闇の中に立っていた。いつからそこにいたのか、我には分からなかった。「北西を頼む」
遠鳴きが答えた。
天の向こうから、長く、低い声が来た。鵺の声だった。サルの頭、タヌキの胴、トラの手足、ヘビの尻尾を持つと語り継がれる怪鳥が、今夜は都の外縁を飛び続けていた。その鳴き声が夜空を震わせるたびに、核の表面に微細な歪みが生じた。
あれの力は、分類できない。
五行のどれにも当てはまらない、複数の属性が混在した力。それゆえに永劫炉の吸収パターンが対応できず、処理を分散させる効果があった。声が来るたびに、吸収が揺れた。揺れるたびに、他の攻撃が通る隙が生まれた。
「今の今の今じゃ」
鎌鼬が叫んだ。上空を高速で旋回していた三頭の鎌鼬が、核へ向けて斜めに突っ込んだ。鎌の爪が核の縁を引き裂こうとした。引き裂けなかった。だが縁が揺れた。揺れた瞬間に、河童の網が締まった。天狗の突風が打ち込まれた。晴元の符が重なった。
核が、大きく揺れた。
今夜で一番大きく揺れた。
「よし」と誰かが言った。実俊だった。彼は真白の隣に立ち、次の符を構えていた。「もう一度、同じ手順で」
核が、静止した。
静止ではない。充填だった。
我は、その変化に気づいた瞬間に、真白の腕に爪を立てた。強く。痛みを与えるつもりではなかった。ただ、何かを伝えようとした。真白が我を見た。我は核を見た。真白の視線が核へ向いた。
「何か、来る」
真白の声は低かった。
来た。
核が、方向を変えた。これまでの広範囲への圧力ではなく、一点への集中だった。照準が絞られた。照準の先は、老翁だった。
ぬらりひょんがわずかに体を動かした。移動ではなく、ほとんど体重の移動だけで、照準からずれた。「どこにでもいる」という彼の性質が、ここでも働いた。
照準が、ずれた先を追った。
「散れ」とぬらりひょんが言った。
妖怪たちが一斉に散開した。核の一撃が空を薙いだ。今度は消去ではなく、波紋だった。衝撃が同心円状に広がり、地面を抉り、近くの土塀を崩した。陰陽師たちの半数が吹き飛ばされた。起き上がる者、起き上がれない者、混在した。
天狗の頭領が再び急降下した。突風を叩き込んだ。吸われた。
河童の長老が網を張り直した。核が吸い込んだ。
「足りぬ」
ぬらりひょんが、低く言った。怒りでも諦めでもなく、ただの観測だった。「この力では、削れない」
我は知っていた。
知っていながら、何も言えなかった。声がないから、というだけではなかった。今の我に出せる力で、あの核に届くものがあるか。計算の結果が、よくなかった。土の理はほとんど空だった。水の理も、この数日で感度が落ちていた。金の理で核の記憶を読もうとすれば、寿命の消耗が見えていた。
それでも。
「姫君と猫を守れ」
声が来た。
誰が言ったかは分からなかった。天狗か、河童の長老か、鎌鼬か。あるいは全員が同時に言ったのかもしれなかった。夜の都に、その言葉が重なって落ちた。
核が、また動いた。
今度の照準は、令嬢だった。
言霊の力を感知したのだ、と即座に悟った。永劫炉は理を吸う装置だった。最も濃い理の源を、あれは必ず狙う。言霊巫女の血を持つ真白は、この都で最も濃い理の発生源だった。
真澄が前に出た。影を広げた。
実俊が符を重ねた。
ぬらりひょんが無言で腕を上げた。合図に応じて、妖怪たちが真白の周囲に集まった。天狗が上空から風の膜を張った。河童たちが水の気を周囲に巡らせた。鵺の鳴き声が、遠くから核の縁を揺らし続けた。
包囲が出来た。
一時の、かろうじての、包囲だった。
核は動じなかった。ただ、脈打った。吸った。また大きくなった。
我は真白の腕の中で、包囲の外側を見た。都の空に、かつてあった星がなかった。核に吸われた理の残滓が、夜をほんの少しだけ、昨日より暗くしていた。
「今夜は、ここまでにしましょう」
晴元の声だった。疲弊ではなく、判断の声だった。「態勢を立て直す。全員、後退」
妖怪たちが、足音を消して散り始めた。
誰も負けたとは言わなかった。
言わなかったが、知っていた。今夜の手数では、核は削れなかった。傷もつかなかった。十分に戦って、十分に押して、それでも核は大きくなっていた。
夜空の永劫炉が、都の上で静かに脈打ち続けていた。
我は前足に力を入れた。入らなかった。真白の腕の温もりだけが、今の我の支えだった。
何か、別の手が要る。
頭の中で、封じたはずの記憶の扉が、かすかに軋む音を立てた。
我はその音から、目を逸らした。
まだだ。
今夜は、まだその扉を開く必要はない。




