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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百三十六話「永劫炉、顕現す(前編)」

冬の空が、割れた。


割れた、と言うより他に言葉がない。内裏だいり南三町の上空、どこまでも冴え渡っていた藍色の夜天よぞらに、紫と黒の混ざり合った裂け目が生じ、そこから何か――ことわりと呼ぶことすら憚られるほど根元的な何かが、音もなく滲み出してきた。


我はそれを、真白ましろの腕の中から見た。


さほど大きくはない。最初の裂け目は、広げた手のひら二枚分ほどだった。だが大きさは問題ではなかった。問題は、その裂け目の向こうから押し寄せてくる気配の、しつだった。


知っている。


嫌というほど知っている。


五行のことわりが六つあるとして、その六つのいずれにも分類できない、もっと根の深いところから来る圧力。我がアルメラの都で設計した装置は、魔力を吸収し増幅する炉だった。終わりのない循環。止まるための条件を組み込まなかった我の、取り返しのつかない設計上の欠落。それが今、界境かいきょうを越えて目の前に現れようとしている。


玄丸くろまろ


真白の声が、低くなった。怯えではなく、覚悟の色。


我は彼女の腕の中で身を固くした。爪を引っ込め、全身の毛を少しだけ逆立てて、前方を凝視する。前方では葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が既に両足を開き、影に半身を溶かした体勢をとっていた。


「来ます」


真澄の声は静かだった。「――大きゅうございます」


裂け目が広がった。


音がした。音というより振動だった。大地の深部から突き上げてくるような、重い響き。我の土のことわりが、地の下の流れの急激な変化として受け取った。かつてぬらりひょんが言った言葉が、耳の底に蘇る。「地の下の流れが変わったとき、次は地の上が変わる番だ」。


先を越した。


裂け目の縁から、光とは言えない何かが漏れ始めた。燃えるのではなく、むしろ周囲の光を食い尽くしながら広がる、黒に近い紫の輝き。その輝きが触れた空気が、細かく振動するのが分かる。三十間けん離れていても、我の毛並みの奥まで伝わってくる振動だった。


それはことわりを吸っていた。


空気の中を漂う言霊の残響、陰陽師たちが積み重ねたの痕跡、この都に何百年と積み上げられてきた人の祈りの堆積。それらを、裂け目の向こうの何かが一息に吸い込んでいた。


「玄丸殿」


後方から声が飛んだ。真名井実俊(まない の さねとし)だった。長官と共に先行して符を設置していたはずだが、いつの間にか十間ほどのところまで走り込んできていた。「あれは、こちらの術式を吸収しています。張り直した符がすべて無効化されている」


安倍晴元(あべ の はるもと)が隣に立ち、天を見上げた。老練な陰陽寮おんみょうりょうの長官は、これまで動揺を顔に出したことがなかった。だが今夜、その表情に初めて別の何かが見えた。動揺ではない。認識だった。「これほどのものが」と、ほとんど独り言のように長官は言った。「理を超えている」


超えているのではない、と内心で訂正する。理を喰っているのだ。


裂け目が、また広がった。今度は大きかった。一瞬で馬五頭分ほどに広がったその口の縁が、波打ちながら震えた。そこから現れたのは、最初、ただの光の塊に見えた。


近い。


三十間どころではない。裂け目が目の前に迫るまで、我には距離の感覚がなかった。真白が走り、真澄が影を伸ばして前に出た。実俊が符を展開した。晴元が低い呪文を唱え始めた。


そして我は、それを正面から見た。


形、と呼ぶには曖昧すぎる。核のような、中心のような、圧縮されたあらゆることわり残滓ざんしが結晶化したような何か。それが夜空に浮かんでいた。大きさは屋敷の大広間ほど。ただし、それは大きくなっていた。今も、少しずつ、少しずつ、周囲の理を吸収しながら。


我は知っていた。


あれが自我じがを持っていることを。


停止条件を組み込まなかった装置が、運転し続けた果てに辿り着いた、あってはならない境地。「完璧な理の世界を作る」という我の目的のみを継承し、目的達成の判断基準を持たないまま動き続けた炉の、最終形。


あれは我を知っている。


裂け目の向こうから滲む圧力の中に、我に向けられた認識の感触があった。設計者として、作り手として、この炉のみなもとに触れ続けてきた者として、我の理の振動パターンを炉は記憶していた。


真白が我を抱く腕に、力が入った。


「あれが、来た」


彼女の声は震えていなかった。


真澄が影走り(かげばしり)で前に出た。実俊が符を重ねた。晴元が呼び声を上げ、二十ほどの陰陽師たちが応えた。鎌鼬かまいたちの気配が上空を過ぎった。天狗の羽音が北西から近づいた。河童かっぱたちの水の気配が東から押し寄せた。


都に集った人と妖の力が、一つの方向を向いた。


しかし我は知っていた。


今夜はまだ、序の口だということを。


あれが本当の力を解放するのは、十分に周囲の理を吸い終わったときだ。今は吸収の段階、蓄積の段階に過ぎない。格子こうしの向こうで息を整えている獣のように、永劫炉えいごうろはまだ動いていなかった。


ただ、あった。


そして吸っていた。


我は土の理で足元を固めた。結界座けっかいざの薄い膜が、真白の周囲に広がった。精一杯の、しかし今夜何度も展開し直した膜だった。膜を張るたびに、我の内側の何かが少し、削れる。


気にするな。


今はそれより先を見ろ。


永劫炉は夜空に静かに浮かんでいた。その周縁しゅうえんが脈打つたびに、都の上空の星が一つ、また一つ、光を失った。

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