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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百三十五話「民の避難」

「布告が出ました」


実俊さねとしの声が、夜明け前の静寂を割った。


門の内側で真澄ますみが受け取った紙を広げる音がした。我は縁先の角から、二人の背中を見ていた。


「内裏から南三町を警戒区域とし、住民は北か東の寺社へ避難するよう、との内容でございますか」


「はい。安倍晴元(あべ の はるもと)さまが昨夜のうちに上申し、今朝方に下りました。陰陽寮の符士ふしが辻々に立って誘導しています」


夜の底がまだ明けきっていなかった。東の空の端だけが、かすかに白んでいる。


「この屋敷は」


「警戒区域の外縁に近い。ただ、地の下の流れがここの下も通っているとすれば——」


「ここも安全ではないでござろう」


実俊が黙った。否定しなかった。


我は白砂に降りた。土の理の糸を地面に通す。昨夜確かめた脈動が、夜明け前の今も続いている。弱まっていない。むしろ、昨夜の丑の刻より脈が明確になっている。


音はない。だが土の下に、水脈とも気流とも違う流れが走っている。昨日より太く、昨日より速い。


——収まる気配がない。


我は縁先に戻り、座り直した。尾を一度、板に打った。


真澄が振り向いた。「玄丸くろまろ殿」


我は地面を一度見て、北の方角へ視線を流した。


真澄の目が細くなった。「流れが続いているでございますか」


実俊も向き直った。「今朝も変わっていないということか」


我は耳を一度、南へ向けた。


実俊が紙に何かを書き込んだ。「南の流れが中心に向かって収束しているとすれば、今日の午前中に何らかの変化が出るかもしれない。晴元さまに伝えます」


足音が遠ざかった。


──


真白ましろが起きてきたのは、陽が完全に昇ってからだった。


廊下を歩く足音が、いつもより早い。部屋の障子が開いて、令嬢は縁先に出るより先に我を見た。


「玄丸。昨夜、ずっと外にいたの」


問いではなかった。確かめる声だった。


我は目を細めた。


真白が縁先に腰を下ろした。冬の朝の空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。「布告のこと、あの方から聞いた」


「はい」と真澄の声が奥から届いた。廊下に立っていたらしい。


「南三町の民が動いているそうです。子供や老いた方々が先に。壮健な方々は荷物をまとめてから、と」


真白が庭を見た。


倒れたままの石燈籠。白砂の染み。板塀の向こうに広がっている都の気配が、今朝は違う。人の流れの音がする。荷車の軋み、幼い子の泣き声、呼び合う大人の声が、遠く重なって聞こえてくる。


「怖いだろうに」


真白は小声で言った。「自分の家から出て、どこへ行けばいいか分からないまま歩いている人たちが、たくさんいるんだね」


我はその傍らに歩み寄り、腰を落とした。


「この屋敷の人たちも、動いてもらった方がいいかもしれない」


真澄が廊下から出てきた。「おおうめとふきには先ほど話しております。荷をまとめ次第、北の親類の元へ向かうよう」


「お母様は」


「母君は——」真澄が少し間を置いた。「今朝は気色がよくいらっしゃいます。動けぬほどではありませぬが、揺れの中を移動させることは危うい」


真白の目が揺れた。揺れたが、すぐに戻った。


「分かった。私が傍にいる」


「姫君」


「私はここにいます。お母様と一緒に」


真澄が黙った。止める言葉を探しているようだったが、見つからなかったらしい。


我も止めなかった。


止める理由がない。真白がここに残ると決めたなら、我もここにいる。それだけのことだった。


──


午前のうちに、おおうめとふきが出立した。


お梅は出がけに縁先の我を見て、「玄丸さま、どうかご無事で」と言った。六十近い料理番の目に、涙があった。ふきは何も言わなかったが、深く頭を下げて、それから走るように門を出た。


屋敷から人の気配が消えた。


人の気配が減ると、土の下の脈動が足裏にはっきり伝わってきた。午前の陽光の中でも、白砂が微かに揺れているように見える。光のせいか、地の理が揺れているせいか、判然としない。


実俊が昼頃に戻ってきた。


「晴元さまが北西の裂け目を封じる試みを始めました。今は小さく、様子を見ながら、ということですが」


「成功するか」と真澄が問うた。


「分かりません。これほど速い拡大は、陰陽寮の記録にもない事例です」


「そうでござろう」と真澄が低く言った。「この動きは——記録にあるものとは、根が違います」


実俊が向き直った。「根が違う、とは」


「さしあたっては、今できることをやるしかないでございます」


真澄は答えを打ち切った。実俊はそれ以上聞かなかった。


我は縁先から二人を見ていた。


真澄は知っている。この動きが単純な界境かいきょうの乱れではないことを。ただ、その正体を言葉にする気はないらしかった。


——正体を言葉にしたところで、今夜の戦い方は変わらない。


変わらないが、我の中では変わる。


永劫炉えいごうろが、脈打っている。かつて我が作り、我が制御できなくなり、世界を飲み込んだあの装置の残滓が、都の地下で目覚めようとしている。


その呼び声は、我に届いている。


引き寄せている。作り手の理の波長を覚えているのか、それとも単なる偶然か——おそらく偶然ではない。


我は土の理の糸を引いた。感知を止めた。


深みに引き込まれる前に、切り上げる。これ以上感知を続けると、逆に感知される。


──


午後になって、都の南から炎に似た光が上がった。


火ではない。黄みがかった白い光が、一拍揺れて消えた。遠く離れていても、あの光には霊的な重みがある。


真白が縁先に飛び出してきた。


「今のは」


「陰陽寮の符が弾けた音でございます」と真澄が言った。屋根の上にいたらしく、声が上から降ってきた。「南の最前符が一枚、何かに当たって砕けました」


「砕けた」


「はい。まだ決壊ではありませぬ。ただ——」


真澄が屋根から降りてきた。「ここより南に立っていた符士ふしの列が、一段後退しています。晴元さまの指示でございましょう」


「後退するということは、ここが前線に近くなる、ということ」


「左様でございます」


真白が息を整えた。


一拍。二拍。


「実俊さまは」


「今朝から晴元さまの指揮下に入っています。符の設置作業に加わっているはずです」


「そう」


真白は庭を見た。古椿こつばきの蕾が、昨日と変わらず固く閉じている。庭木の枝が、風もないのに微かに揺れた。地の下の脈動が、幹に伝わっているのかもしれない。


「玄丸」


名を呼ばれた。


その傍らに腰を下ろした。


令嬢が膝を折って我の目の高さまで顔を下げた。昨日も同じことをした。この人は、何かを確かめたい時にこうする。


「行こう」


真白が言った。


「最前線、とまではいかなくても。ここにいて待つより、実俊さまや晴元さまの近くにいた方がいい。私の言霊が届く場所に立っていた方が、きっと役に立てる」


我は真白を見た。


顔色は白い。恐れはある。それでもこの目は揺れていない。


真白が両手を前に差し出した。


「抱いていくね。一緒に戦おう」


言葉が庭に落ちた。


冬の乾いた空気の中で、その声だけが温かかった。


我は立ち上がった。真白の腕の中に、自ら踏み込んだ。持ち上げられる感触があった。この体に慣れた、いつもの腕だった。


「……よし」


真白が小声で言った。自分に言い聞かせるような声だった。


我は顔を上げた。その頬が目の前にあった。


一拍だけ、迷った。


猫の習性ではない。魔導王の判断でもない。ただ——この令嬢がこれから向かう場所を思えば、今ここで言えることは、言っておく必要がある。


顔を寄せた。


頬に、鼻先を押し当てた。


真白の腕が、わずかに強くなった。


「……玄丸」


声が細くなった。泣いてはいない。だがその一音に、たくさんのものが入っていた。


我は顔を離した。前を向いた。


言葉にならない。ならなくていい。


「行きます」と真澄が後ろで言った。「お供いたします」


三人で門を出た。


都の通りに人の流れがあった。避難する人々の列が、北へ北へと続いている。老いた男が荷を担いで歩いている。母親が幼子の手を引いている。誰かが誰かの名を呼ぶ声がする。


我は真白の腕の中から、都の南の空を見た。


黄みがかった光が、また一度、遠くで揺れた。


——守る。


声はない。誓いを告げる相手もない。ただ、腕の中の温もりを感じながら、我はそれだけを思った。


この令嬢が歩く場所を、我が先に踏む。この声が届く場所に、我の理が張る。それだけでいい。それだけを、今夜が終わるまで続ける。


真白の足が、南へ向かって踏み出した。


冬の空は高く、都の上に広がっていた。古椿の蕾は、屋敷の庭で今も閉じたまま。


まだ、咲く時ではない。

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