第百三十四話「界境の拡大」
夜が変わったのは、丑の刻に近い頃だった。
砂利の霜が溶けていた。
冬の夜半に霜が溶けることはない。だが白砂の上に降りていたはずの薄い氷が、気づけば消えている。代わりに砂利の下から、ほの暗い揺らぎが滲み出していた。
土の理の膜が、ここ数日のうちで最も薄くなっている。
我は縁側を降り、白砂の端に足をついた。踏みしめた瞬間、足裏から伝わってくる振動の質が変わっていた。昨夜真澄が確かめた「細い流れ」が、一夜でひと回り太くなっている。
南東だけではない。
耳を立てた。北西の山裾の方角から、低い唸りに似た気配が届いていた。鵺の遠音ではない。もっと地を這う、生き物の声ではない音だ。
界境が動いている。
単純な拡大ではなかった。ぬらりひょんが言っていた「脈打つような」という言葉が、今この足裏の感触と重なった。三か所の裂け目が、何かを中心として引き合うように膨らんでいる。
我は土の理を薄く伸ばした。
鳴き声ひとつなく、肉球が白砂に痕跡を刻まない程度に、意を細糸のように地面へ通す。振動数が読めた。北西が深く、南東は浅い。だが速い。昨日より速い。
東の方角で水が騒いだ。
川の音ではない。河童一族が東の押さえについているはずだが、その気配が今夜は揺れていた。押されている。
我は踵を返し、縁側に駆け戻った。
──
夜が明けきらぬうちに、実俊が来た。
門を叩く音が大きかった。いつもの二拍ではなく、三拍続けて叩く——急ぎを知らせる約束だったと記憶している。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が先に出た。我は母屋の縁先に座って二人の話を聞いた。
「北西の観測符が三枚、同時に反応しました」
実俊の声は低かった。眠っていない目をしていた。「北西だけではありません。南東の副符も昨夜から揺れ続けています。安倍晴元(あべ の はるもと)さまが今朝から陰陽寮の全員を配置につけています」
「地の下の流れはいつからでございますか」
「昨夜の亥の刻から急に。今朝の時点で、北西・南東の中間点が——」
実俊が懐から紙を出した。「ここになっています」
真澄が受け取った紙を見た。沈黙が数拍続いた。
「都の中心に近いでございますか」
「近い。内裏から南に三町あまり。このまま拡大すれば、今夜か明後日には都の目抜き通りに達するかもしれない」
真澄の目が変わった。変わったが、声は平坦だった。「姫君にはまだ申し伝えておりませぬ」
「それは……」
「起こしてまいります」
真澄が屋敷の奥へ消えた。
実俊は残った。縁先に我がいることに気づいて、足を止めた。
「玄丸。南東の気配が昨夜から変わっていることは、もう気づいていたか」
我は一度、目を細めた。
実俊が細く息を吐いた。「そうか」と言った。「では、もう一つ聞く。この動きには、何か中心がある。そう思うか」
我は視線を地面に落とした。白砂の下、地の奥で脈打つあの感触。中心、というより——呼び声、と言う方が近い。何かが引き寄せている。
尾を一度、大きく地面に打った。
実俊が目を細めた。「中心がある、ということだな」
この陰陽師は、我の応答をほとんど誤読しない。長く共に動いてきた時間が、無言の通訳をしている。
「晴元さまにも伝えます。符の中心点を南東寄りに再設定する必要がある」
──
藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁先に出てきたのは、夜が明けてしばらく経った頃だった。
真澄から話を聞いたのだろう。顔色は青くはなかったが、目の奥に何かを決めたような硬さがあった。
「どのくらい広がっているの」
実俊が答えた。「今朝の観測では、北西の裂け目の端が内裏まで二町ほどです。南東は三町。速度からすると……」
「速度からすると、今夜か明日か、ということね」
「可能性として、はい」
真白は庭を見た。倒れたままの石燈籠が、朝の光を受けて影を伸ばしていた。
「民は」
「内裏の南側に近い辻々で、昨夜から怪火が出ています。庶民の間では噂になっています。陰陽寮が人を出して鎮めていますが、隠しきれない」
真白が目を閉じた。一拍の間があった。
「避難の準備をしなければいけない」
「姫君、しかし——」
「ここにいるだけでは守れない。あなたも、真澄さまも分かっているでしょう」
実俊は言い返せなかった。
我は縁先から真白を見ていた。
この令嬢は恐れていない、というのではない。恐れているが、その恐れを足場にしている。言霊感応の血がそうさせるのか、それとも最初からそういう芯を持って生まれたのか、我には判じかねた。
ただ——守る。
この屋敷が、この縁先が、この庭が、すべて消えたとしても。
この令嬢の傍らにいる。それだけは変わらない。
尻尾が板の上に一度打たれた。誰も気づかなかった。
──
昼になって、鎌鼬の気配が来た。
屋敷の上空を旋回するように飛んで、庭の砂利に細い線を引いて去った。以前来た時に残していった軌跡の印だ。報せがある。
真澄が読んだ。「北の山の端で、天狗衆が二か所の裂け目を確認した。いずれも小さいが、北に加えて北西・東・南東と、四方が揺れている」
実俊が紙の上に記号を書き込んだ。「四方、か。中心から均等に広がっているとしたら——」
「内裏の南」と真澄が引き取った。
「そこが最も薄くなっているはずでございます。まだ裂けてはいない。だが今夜あたりが境目になるでござろう」
実俊が立ち上がった。「晴元さまに報告します。急いで」
足音が遠ざかった。
真澄は残った。庭に向いたまま、しばらく動かなかった。
「玄丸殿」
声だけで呼びかけてきた。
「今夜が一つの境目になるかもしれませぬ。我々が今できることを、今やっておく必要がありまする」
我は真澄の横に歩み寄り、庭を見た。
白砂に染みが残っている。先日の魔物との接触でできた変色が、まだ消えていない。石燈籠は倒れたままだ。冬の日差しは薄く、庭木の影が砂利の上に長く伸びていた。
「姫君を守ることを」と真澄は続けた。「それだけを考えておけばいいのでございます。あとのことは——あとのことは、それぞれが引き受けます」
尾が揺れた。
「分かっておいでのことでござろう。それでも、一度声に出しておきたかった」
声、とは奇妙な言い方だった。真澄には声がある。我にはない。それでも真澄は「声に出した」と言った。
互いに確認した、ということだろう。
我は前足を揃えて座り直した。
庭の奥、砂利と板塀の際で、古椿の蕾が固く閉じていた。冬の寒さの中で、咲く時を待って縮こまっている。咲かないのではない。まだ、咲く時ではないだけだ。
──
夕刻、都の南から煙が上がった。
火ではない。黒い靄が地面から湧き出るように立ち昇り、しばらくして霧散した。真澄が即座に屋根の上に出て方角を確かめ、「辻の一つが揺れているでございます」と報告した。
庶民が騒ぎ始めていた。
遠くから人の声が届いた。叫びではない。ざわめきだ。日常の音ではない、何かを恐れる時の声の重なり。
真白が縁先に出た。
「聞こえる」
「聞こえているでございましょう」と真澄が答えた。「南の辻二か所で怪火が出ました。陰陽寮の符士が向かっています」
「民が怪我をしていないといいけれど」
「今のところ報告はありませぬ。ただ——」
「ただ?」
真澄は少し間を置いた。「今夜はこのまま収まるとは思えませぬ」
真白が南の空を見た。夕暮れの色の中に、わずかに濁りがある。空気の質が昨日と違う。言霊感応の素質が高い真白には、それが霊的な揺らぎだと分かっているはずだった。
「玄丸」
名を呼ばれた。
真白が縁先に膝をついて、我の目線の高さまで顔を下げた。
「怖い?」
問いかけるような声だった。我に聞いているのか、自分自身に問いかけているのか、判じかねた。
その目を見た。
夕暮れの光の中で、令嬢の目は澄んでいた。恐れが、澄んだ水に映る影のようにそこにある。それだけだ。濁ってはいない。
前足を、その膝の上に乗せた。
真白が息を吸った。
「……そうだね。大丈夫」
大丈夫かどうかは分からない。だがこの令嬢は、今夜を越える力を持っている。それが、我がこの一年で確かめたことだ。
夜が来る。
我は真白の傍らに腰を落とした。南の空の濁りを見ながら、土の理の糸を地面に深く沈めた。都の下を走る流れの脈動が伝わってくる。速い。
今夜が境目になる、という真澄の言葉は、おそらく正しかった。
裂け目は塞がっていない。三か所から四か所へと広がり、今も脈打ち続けている。中心点はまだ動いていないが、そこに向かって何かが集まろうとしている気配がある。
——かつてのアルメラで、永劫炉が初めて世界の理を引き寄せ始めた頃も、こういう感触だった。
最初は静かだった。
脈打つように、どこかで何かが呼んでいる。応えるものが一つ増えるたびに、脈が大きくなる。止める機会はあった。だが止めなかった。あの頃には、止める必要があると思わなかった。
あの頃の我と今の我は違う。
違う、と言い切れるかどうかは——まだ分からない。だが今夜の我には、守るべきものがある。名前があり、声があり、この縁先に膝をついて我の目を覗き込む、そういう顔がある。
夕暮れが落ちて、空が紫から墨へと変わった。
真澄が屋根の上から降りてきた。「北西でも動きがありました。天狗衆が遠音を飛ばしています」
実俊が小走りに戻ってきた。「晴元さまが今夜の警戒体制を三倍に増やしました。都の各辻に符士を配置する。民への布告も出す準備をしています」
「布告を出すということは」と真白が言った。
「民に知らせる、ということです。避難の準備をしておくよう伝える。詳しい内容は明朝になります」
「明朝を待てる状況ならばいいけれど」
誰も反論しなかった。
夜の冷気が庭に降りてきた。砂利の上に霜はない。霜が降りない夜は、地の下が熱を持っている。今夜はその熱が強い。
我は前足で白砂の縁を一度踏んだ。
土の理の膜を確かめる。昨夜よりさらに薄い。穴があいているわけではない。だが大きな力が加われば、今の膜では押さえ切れない。
——この屋敷の結界が今夜を越えられるかどうか。
こればかりは、やってみるまで分からなかった。
夜が深まる。都の南から、また低いざわめきが届いた。




