表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
135/144

第百三十四話「界境の拡大」

夜が変わったのは、丑の刻に近い頃だった。


砂利の霜が溶けていた。


冬の夜半に霜が溶けることはない。だが白砂の上に降りていたはずの薄い氷が、気づけば消えている。代わりに砂利の下から、ほの暗い揺らぎが滲み出していた。


土の理の膜が、ここ数日のうちで最も薄くなっている。


我は縁側を降り、白砂の端に足をついた。踏みしめた瞬間、足裏から伝わってくる振動の質が変わっていた。昨夜真澄が確かめた「細い流れ」が、一夜でひと回り太くなっている。


南東だけではない。


耳を立てた。北西の山裾の方角から、低い唸りに似た気配が届いていた。ぬえの遠音ではない。もっと地を這う、生き物の声ではない音だ。


界境かいきょうが動いている。


単純な拡大ではなかった。ぬらりひょんが言っていた「脈打つような」という言葉が、今この足裏の感触と重なった。三か所の裂け目が、何かを中心として引き合うように膨らんでいる。


我は土の理を薄く伸ばした。


鳴き声ひとつなく、肉球が白砂に痕跡を刻まない程度に、意を細糸のように地面へ通す。振動数が読めた。北西が深く、南東は浅い。だが速い。昨日より速い。


東の方角で水が騒いだ。


川の音ではない。河童かっぱ一族が東の押さえについているはずだが、その気配が今夜は揺れていた。押されている。


我は踵を返し、縁側に駆け戻った。


──


夜が明けきらぬうちに、実俊さねとしが来た。


門を叩く音が大きかった。いつもの二拍ではなく、三拍続けて叩く——急ぎを知らせる約束だったと記憶している。


葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が先に出た。我は母屋の縁先に座って二人の話を聞いた。


「北西の観測符が三枚、同時に反応しました」


実俊の声は低かった。眠っていない目をしていた。「北西だけではありません。南東の副符も昨夜から揺れ続けています。安倍晴元(あべ の はるもと)さまが今朝から陰陽寮の全員を配置につけています」


「地の下の流れはいつからでございますか」


「昨夜の亥の刻から急に。今朝の時点で、北西・南東の中間点が——」


実俊が懐から紙を出した。「ここになっています」


真澄が受け取った紙を見た。沈黙が数拍続いた。


「都の中心に近いでございますか」


「近い。内裏から南に三町あまり。このまま拡大すれば、今夜か明後日には都の目抜き通りに達するかもしれない」


真澄の目が変わった。変わったが、声は平坦だった。「姫君にはまだ申し伝えておりませぬ」


「それは……」


「起こしてまいります」


真澄が屋敷の奥へ消えた。


実俊は残った。縁先に我がいることに気づいて、足を止めた。


玄丸くろまろ。南東の気配が昨夜から変わっていることは、もう気づいていたか」


我は一度、目を細めた。


実俊が細く息を吐いた。「そうか」と言った。「では、もう一つ聞く。この動きには、何か中心がある。そう思うか」


我は視線を地面に落とした。白砂の下、地の奥で脈打つあの感触。中心、というより——呼び声、と言う方が近い。何かが引き寄せている。


尾を一度、大きく地面に打った。


実俊が目を細めた。「中心がある、ということだな」


この陰陽師は、我の応答をほとんど誤読しない。長く共に動いてきた時間が、無言の通訳をしている。


「晴元さまにも伝えます。符の中心点を南東寄りに再設定する必要がある」


──


藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁先に出てきたのは、夜が明けてしばらく経った頃だった。


真澄から話を聞いたのだろう。顔色は青くはなかったが、目の奥に何かを決めたような硬さがあった。


「どのくらい広がっているの」


実俊が答えた。「今朝の観測では、北西の裂け目の端が内裏まで二町ほどです。南東は三町。速度からすると……」


「速度からすると、今夜か明日か、ということね」


「可能性として、はい」


真白は庭を見た。倒れたままの石燈籠が、朝の光を受けて影を伸ばしていた。


「民は」


「内裏の南側に近い辻々で、昨夜から怪火あやしびが出ています。庶民の間では噂になっています。陰陽寮が人を出して鎮めていますが、隠しきれない」


真白が目を閉じた。一拍の間があった。


「避難の準備をしなければいけない」


「姫君、しかし——」


「ここにいるだけでは守れない。あなたも、真澄さまも分かっているでしょう」


実俊は言い返せなかった。


我は縁先から真白を見ていた。


この令嬢は恐れていない、というのではない。恐れているが、その恐れを足場にしている。言霊感応の血がそうさせるのか、それとも最初からそういう芯を持って生まれたのか、我には判じかねた。


ただ——守る。


この屋敷が、この縁先が、この庭が、すべて消えたとしても。


この令嬢の傍らにいる。それだけは変わらない。


尻尾が板の上に一度打たれた。誰も気づかなかった。


──


昼になって、鎌鼬かまいたちの気配が来た。


屋敷の上空を旋回するように飛んで、庭の砂利に細い線を引いて去った。以前来た時に残していった軌跡の印だ。報せがある。


真澄が読んだ。「北の山の端で、天狗衆てんぐしゅうが二か所の裂け目を確認した。いずれも小さいが、北に加えて北西・東・南東と、四方が揺れている」


実俊が紙の上に記号を書き込んだ。「四方、か。中心から均等に広がっているとしたら——」


「内裏の南」と真澄が引き取った。


「そこが最も薄くなっているはずでございます。まだ裂けてはいない。だが今夜あたりが境目になるでござろう」


実俊が立ち上がった。「晴元さまに報告します。急いで」


足音が遠ざかった。


真澄は残った。庭に向いたまま、しばらく動かなかった。


「玄丸殿」


声だけで呼びかけてきた。


「今夜が一つの境目になるかもしれませぬ。我々が今できることを、今やっておく必要がありまする」


我は真澄の横に歩み寄り、庭を見た。


白砂に染みが残っている。先日の魔物との接触でできた変色が、まだ消えていない。石燈籠は倒れたままだ。冬の日差しは薄く、庭木の影が砂利の上に長く伸びていた。


「姫君を守ることを」と真澄は続けた。「それだけを考えておけばいいのでございます。あとのことは——あとのことは、それぞれが引き受けます」


尾が揺れた。


「分かっておいでのことでござろう。それでも、一度声に出しておきたかった」


声、とは奇妙な言い方だった。真澄には声がある。我にはない。それでも真澄は「声に出した」と言った。


互いに確認した、ということだろう。


我は前足を揃えて座り直した。


庭の奥、砂利と板塀の際で、古椿こつばきの蕾が固く閉じていた。冬の寒さの中で、咲く時を待って縮こまっている。咲かないのではない。まだ、咲く時ではないだけだ。


──


夕刻、都の南から煙が上がった。


火ではない。黒いもやが地面から湧き出るように立ち昇り、しばらくして霧散した。真澄が即座に屋根の上に出て方角を確かめ、「辻の一つが揺れているでございます」と報告した。


庶民が騒ぎ始めていた。


遠くから人の声が届いた。叫びではない。ざわめきだ。日常の音ではない、何かを恐れる時の声の重なり。


真白が縁先に出た。


「聞こえる」


「聞こえているでございましょう」と真澄が答えた。「南の辻二か所で怪火が出ました。陰陽寮の符士ふしが向かっています」


「民が怪我をしていないといいけれど」


「今のところ報告はありませぬ。ただ——」


「ただ?」


真澄は少し間を置いた。「今夜はこのまま収まるとは思えませぬ」


真白が南の空を見た。夕暮れの色の中に、わずかに濁りがある。空気の質が昨日と違う。言霊感応の素質が高い真白には、それが霊的な揺らぎだと分かっているはずだった。


「玄丸」


名を呼ばれた。


真白が縁先に膝をついて、我の目線の高さまで顔を下げた。


「怖い?」


問いかけるような声だった。我に聞いているのか、自分自身に問いかけているのか、判じかねた。


その目を見た。


夕暮れの光の中で、令嬢の目は澄んでいた。恐れが、澄んだ水に映る影のようにそこにある。それだけだ。濁ってはいない。


前足を、その膝の上に乗せた。


真白が息を吸った。


「……そうだね。大丈夫」


大丈夫かどうかは分からない。だがこの令嬢は、今夜を越える力を持っている。それが、我がこの一年で確かめたことだ。


夜が来る。


我は真白の傍らに腰を落とした。南の空の濁りを見ながら、土の理の糸を地面に深く沈めた。都の下を走る流れの脈動が伝わってくる。速い。


今夜が境目になる、という真澄の言葉は、おそらく正しかった。


裂け目は塞がっていない。三か所から四か所へと広がり、今も脈打ち続けている。中心点はまだ動いていないが、そこに向かって何かが集まろうとしている気配がある。


——かつてのアルメラで、永劫炉えいごうろが初めて世界の理を引き寄せ始めた頃も、こういう感触だった。


最初は静かだった。


脈打つように、どこかで何かが呼んでいる。応えるものが一つ増えるたびに、脈が大きくなる。止める機会はあった。だが止めなかった。あの頃には、止める必要があると思わなかった。


あの頃の我と今の我は違う。


違う、と言い切れるかどうかは——まだ分からない。だが今夜の我には、守るべきものがある。名前があり、声があり、この縁先に膝をついて我の目を覗き込む、そういう顔がある。


夕暮れが落ちて、空が紫から墨へと変わった。


真澄が屋根の上から降りてきた。「北西でも動きがありました。天狗衆が遠音を飛ばしています」


実俊が小走りに戻ってきた。「晴元さまが今夜の警戒体制を三倍に増やしました。都の各辻に符士を配置する。民への布告も出す準備をしています」


「布告を出すということは」と真白が言った。


「民に知らせる、ということです。避難の準備をしておくよう伝える。詳しい内容は明朝になります」


「明朝を待てる状況ならばいいけれど」


誰も反論しなかった。


夜の冷気が庭に降りてきた。砂利の上に霜はない。霜が降りない夜は、地の下が熱を持っている。今夜はその熱が強い。


我は前足で白砂の縁を一度踏んだ。


土の理の膜を確かめる。昨夜よりさらに薄い。穴があいているわけではない。だが大きな力が加われば、今の膜では押さえ切れない。


——この屋敷の結界が今夜を越えられるかどうか。


こればかりは、やってみるまで分からなかった。


夜が深まる。都の南から、また低いざわめきが届いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ