第百三十三話「三者三様」
我は、三つの恋を知っている。
一つは言葉で告げられた恋。一つは沈黙のうちに諦められた恋。そして一つは、我のうちに澱のように沈んで、名を呼ばれるたびに底を揺らす恋だ。
どれも都の空気に溶けて見えない。けれど確かに、この屋敷の三か所にそれぞれ根を張っている。
冬の廊下は底冷えがした。砂利の上の霜が白く残り、母屋と離れを繋ぐ渡り廊下の板が、踏み込むたびに小さく軋む。我は目目連の宿る古障子を通り過ぎ、主の部屋へ向かった。
「玄丸」
障子が開く前に声がした。
「入っていいよ」
藤原真白(ふじわら の ましろ)は文机の前に座っていた。筆を置いたばかりらしく、墨の匂いが薄く漂っている。文机の端に、小さな白梅の枝が水差しに挿されていた。
我は障子の縁を越えて部屋へ入った。
真白の視線が追ってくる。その目に警戒はない。ただ、咲き継ぐ花のように、見るたびに何かが増えていく。
「字の稽古をしていたの。でもうまくいかなくて」
文机の端に書き損じが二枚あった。我はそちらへ目を向けなかった。文字の良し悪しを論じるつもりはない。それより、この部屋の気がいつもより緊張していることが気になった。
——何かが真白を縛っている。
心配ではない。緊張の質が違う。澄んだ水が器の形を探しているような、そういう感触だ。
「ね、玄丸」
真白が膝の前に手を置いた。招くような仕草だった。我は畳の上を進み、その手の傍らに座った。
令嬢の指先が毛並みの上に落ちてきた。梳くでも撫でるでもなく、ただ触れているだけの手だった。
「実俊さまが、また来てくれたでしょう。昨日」
来た。確かに来た。我は知っている。
真名井実俊(まない の さねとし)は夜半過ぎに陰陽寮から戻り、この屋敷に寄った。灯りの落ちた中門を前に少し立ち止まってから、それでも門を叩いた。二度目の告白から日が経っていなかったが、用件は別のことだった——というのが実俊の建前だろうと我には分かる。南の観測符の話を口実に、真白の顔を見たかったのだ。陰陽師の理詰めの頭も、この一点だけは制御できていない。
「あの方はまっすぐな人だと思う」
真白の声は柔らかかった。
「だから難しいの。まっすぐな人を前にすると、私もちゃんと向き合わなきゃって思って、でもまだ答えが出なくて」
我は尾を一度、板の上に打った。
真白が目を細めた。「そうだよね」と言った。何に同意したのかは我にも分からないが、真白にとっては意味があったらしい。
「真澄さまのことも」
真白の声が少し低くなった。
「昨日の夜、庭を歩いているところを見たの。月もない夜に、一人で」
真澄は夜に動く。影に親しい血筋だから当然といえば当然だが、近頃は昼間でも気配を消して屋敷の裏側を歩いていることがある。あの男が都の四隅を一つずつ確かめているのは我にも分かる。己の血を使う準備を、少しずつ整えているのだ。
——頼んだぞ。
耳の奥にあの声が残っている。
「真澄さまは、私のために何かを決めているんだと思う」
真白はそれ以上言わなかった。言霊感応の素質があるからだろうか、この令嬢は時々、言葉の向こうにある形を掴む。それでも形の正確な輪郭は見えていない。今はそれでいい。
「玄丸には全部分かるんでしょう」
我の背に真白の手が乗った。
「あなたはいつも、全部見えているみたいな目をしてる」
見えている、とも言い切れない。分かっているつもりで分かっていないことが、この一年で増えた。人の情というものは、我が大陸を統べていた頃に学んだどの理論とも合致しない。計算できない。
真白が少し笑った気配がした。
「ねえ、玄丸。お願いがある」
我は顔を上げた。
真白の目が真っ直ぐこちらを向いていた。灯台の灯りのような目だった。遠くまで届く、揺らがない光だった。
「戦いが終わったら、ずっと一緒にいてね」
言葉が室内に広がった。
小さな声だった。それなのに、四方の柱に当たって戻ってきたように我の耳に残った。
ずっと一緒にいてね。
我は動けなかった。
尾が板の上に伸びたまま止まっている。耳の向きも変わっていない。毛並みがわずかに逆立ったことを、真白は気づかなかっただろう。
「約束だよ」
真白は微笑んでいた。無邪気な笑みだった。何かを犠牲にする覚悟や、別れを予期する翳りは、どこにもなかった。春に花が咲くことを疑わない、そういう顔だった。
我には答えられない。
言葉がない、という話ではない。我には声がなく、人の言葉を発することができない。それ以前に、答えるべき言葉を持っていない。「ずっと一緒に」。その「ずっと」が、どこまで続くかを、我だけが知っている。
魔法を使うたびに、何かが摩耗する。火を灯すたびに蝋が減るように、確実に、戻らない形で。
ずっと一緒にいてね。
この言葉をそのまま受け取ることができない。だが、否定することもできない。
我は真白の膝の上に顎を乗せた。
それだけだった。肯定でも否定でもない。ただ、この温もりの中に今しばらくいたいという、それだけの意思表示だった。
「……うん」
真白は何も問い返さなかった。ただ頭の上に手を置いて、何度か撫でた。
白梅の枝が揺れもせず、水差しの中に立っていた。
──
夕刻、実俊が来た。
南の観測符の話が本題だった。今度こそ本当に用件から入ってきたところを見ると、あの若い陰陽師も昨夜からいくらか落ち着きを取り戻したらしい。
「南の裂け目について、昨日と今日とで揺らぎの質が変わっています。単純な拡大ではなく、何かが……脈打っているような」
実俊は文机の前に座り、広げた紙に記号を書き込みながら話した。真白はその傍らで、茶を用意していた。
我は縁側の端から二人を見ていた。
こうして見ると、不思議と違和感がない。実俊が難しい顔で符を並べ、真白がそれを耳を傾けて聞いている。どちらも過剰な距離感を演じていない。二人の間にある空気は、昨夜より少しだけ密度が上がっていた。
——あの夜からずっと、あの顔に出ている。
何かを受け取ったと知っている顔だ。明確な返事ではなかっただろうが、真白の頷きを、あの男は胸の中で大切にしまっている。それが行動を急かさずに落ち着かせている。
「北西の符と合わせると、中心点が少しずれているように見えるんです」
「どのくらい?」
「三町ほど、南東に」
「それは……」
「今は仮説です。でも、南に重点を置き直す可能性も考えておいた方がいいかもしれない。晴元さまにも報告します」
我は尾を一度揺らした。
実俊が目を向けた。
陰陽師の目は鋭い。我の仕草を記号として読もうとする癖が、ここ数か月で強くなっている。
「玄丸が何か言いたそうだ」
真白が顔を上げた。「南の話?」と問うように我を見た。
我は彼の広げた紙の方へ目を向け、それから庭の南東に視線を流した。
実俊が紙の上の指を止めた。「……南東か」と低い声で言った。「そこに符を増やすことを考えてみます」
それだけでいい。
この若い陰陽師は飲み込みが早い。言葉を交わせなくても、積み重ねてきた時間が通訳をしてくれる。
──
夜、真澄が縁側の端に現れた。
音がなかった。気配もほとんどない。ただ、ある瞬間にそこに立っていた。
「姫君はお休みになりましたでございますか」
問いというより確認だった。
我は頷く代わりに、耳を一度、母屋の方向へ向けた。
「さようでございます」
真澄は縁に腰を下ろした。珍しいことだった。立ったまま話を切り上げることの多いこの男が、腰を落とすのは、長く話すつもりのある夜だけだ。
「南東に動きがあるでござろう。夕刻に地の下を確かめました」
我は真澄を見た。
「土の下に、細い流れができています。水脈ではなく、魔の気が通った跡でございます。昨日は気配が薄くて確かめられなかったが、今日は少し色が濃くなっていた」
実俊の観測と一致する。
「姫君には言っておりませぬ。余計な心配をおかけするのは本意ではございませぬから」
真澄は遠い目で庭を見ていた。倒れたままの石燈籠が、闇の中に黒い影を作っている。
「玄丸殿」
名を呼ばれた。
「姫君が今日、嬉しそうな顔をしていた。何があったかは聞かぬが、悪いことではなかったでござろう」
我はそれに答えなかった。尾もわずかしか動かなかった。
「それでよいのでございます」
真澄は小さく言った。言い聞かせるような声だった。誰に向けているのかは分からなかった。
冬の空に星が出ていた。北西の山の方向に、かすかに雲が動いていた。鵺の声は今夜は聞こえない。都の外縁を、まだ飛んでいるのだろう。
三つの恋はそれぞれに違う夜を過ごしている。
実俊は今頃、陰陽寮の灯りの下で符を並べ直しているはずだ。真白の頷きを糧に、理詰めの頭を回している。
真澄は目の前にいる。庭を見て、口を閉じている。己に与えられた役割を、一つずつ果たそうとしている。
そして我は——
縁側の板の冷たさが、足裏から伝わってくる。
ずっと一緒にいてね。
あの声が耳の奥に留まっている。払えない。払おうとも思わない。
答えは出せない。けれど、この屋敷の灯りが消えない限り、我は縁側のこの場所にいるだろう。それだけは確かだった。
真澄が立ち上がった。「今宵はここまでにいたします」と言って、影の中へ溶けていった。
音がなかった。
我は一人、夜の庭を見ていた。
石燈籠は倒れたまま。砂利に霜が降り始めていた。南東の空は、今夜はまだ静かだった。




