第百三十二話「ぬらりひょんの策」
縁側の板が、外から重みを受けた。
軽い音だった。人の足音ではない。ひょうすべや垢嘗が立てるものとも違う。もっと古い、空気の澱みを踏むような、妖怪の年齢が滲み出る踏みしめ方だった。
我は顔を上げた。
縁側の先、庭石の上に、老翁が座っていた。
頭は大きく、顎の下に白い顎鬚が垂れていた。目は細く、笑っているのか値踏みしているのか、その境目のない表情で、茶碗を片手に持っていた。茶碗は我が屋敷のものではなかった。どこで調達してきたのか、薄緑の釉薬がかかった、見覚えのない器だった。
「久しゅうなったな、猫」
ぬらりひょんだった。
前に会った時より、老けたように見えた。あるいは老けて見せているだけかもしれなかった。この妖の外見は、本人の意志で幾らでも変わる。
「遠慮なく上がった。主の留守に上がり込むのが我らの習いゆえ」
真白は今朝から母君の部屋に入りっきりだった。実俊は陰陽寮へ出ている。真澄は昨夜の後、屋敷の裏手を回って一人で動いていた。屋敷の中に人の気配が薄い時を、老翁は見計らって来た。
我は縁側から庭石へ飛び降りた。老翁の前に腰を落として、向き合う姿勢をとった。
「ふむ」とぬらりひょんは言った。「逃げんか。よろしい」
茶碗を傾けた。音もなく飲んだ。中身が何かは我には分からなかった。
「儂が来たのは戦のためではない。算段のためよ」
我は耳を動かした。
「北西・東・南の三点、裂け目が残っておるのは承知の上じゃ。河童の倅から水の変化を聞いておる。鎌鼬からは風の歪みを。鵺からは夜の遠音を」
ぬらりひょんは顎鬚を一本指で撫でながら続けた。
「そこで儂が考えたことをお主に話す。人間どもに話せば、言葉の半分は陰陽師の理屈で詰められて形が変わる。猫、お主は聞くだけで良い。聞いて、必要なら動け」
妖怪の総大将が算段の相手として猫を選んだ理由は、わかっていた。この屋敷の中で、言葉の形を変えずに受け取れる者が、我しかいないからだ。声を返さない者は、余計な解釈を挟まない。
ぬらりひょんは茶碗を庭石の横に置いた。
「三点の裂け目は、等間隔ではない。北西が最も深く、東と南は浅い。東と南の二点は、北西を動かすための囮の可能性がある」
我の内心で、一つの線が繋がった。以前から考えていた、秩序を持った動き。魔物が単純に増えているのではなく、意図を持って配置されているという察し。ぬらりひょんが今言ったことは、その察しと重なった。
「北西に力を集中させれば、東と南が動く。三点を同時に抑えようとすれば、北西が一気に裂ける。いずれにせよ、人間の陰陽師の数では足りん」
ぬらりひょんは目を細めた。
「そこで妖怪の役割が要る。東の押さえに河童の一族を水から動かす。南の変化には火車が先行して死の気配を読む。北西は……儂と天狗と鵺が当たる」
我は体を微かに前に傾けた。
「お主が驚いたのはわかる」とぬらりひょんは言った。「儂が表に出ることは、そうそうない。妖怪の総大将が表で動けば、都の気が揺れる。じゃが今は揺れたほうがましな状況になりつつある」
庭の梅が、朝の光の中で蕾を開きかけていた。一輪だけ、白い花弁が端から解け始めていた。
「猫よ、一つ聞く」
ぬらりひょんの目が、初めて真っすぐこちらを向いた。細い目の奥に、長く生きた妖特有の光があった。物を見続けた者の目だった。
「この屋敷の姫君の言霊は、どこまで届くと見ておる」
問いだった。我への問いだった。答えを求めているのではなく、我がどこまで真白の力を把握しているかを量っていた。
我は動かなかった。答えを返す手段を持たなかった。しかし視線は逸らさなかった。老翁の問いを、受け取ったという意思表示だけをした。
「ふむ」とぬらりひょんは言った。「逸らさんか。では把握しておると見る」
一方的に解釈した。正しかった。
「言霊が都全体に届くなら、妖怪どもの声と重ねれば大きな結界になる。人と妖の声が一つになれば、界境を縫い合わせる力になりうる」
そこだ、と我は思った。言葉にならない思考が、体の中で一つに固まった。真白の力は、単独では都全体を覆えない。しかし何かと共鳴すれば、その到達域が変わる。それが妖怪の声であるなら——
「猫よ」
ぬらりひょんが立ち上がった。庭石の上から、音もなく砂利に降りた。草履が砂利を踏む音がなかった。
「お前の覚悟は、見えた」
我は動かなかった。
「以前にお主と話した時から、儂はこの猫をただの猫だとは見ておらん。じゃが今は、ただの猫どころか、この都に必要な理の柱の一本よ」
茶碗を拾い上げた。どこへしまうかと見ていると、袖の中に消えた。
「実俊とやらの陰陽師には、儂の算段は届けん。あれは理を先に立てる。算段の形が変わる。お主から伝えよ」
声のない猫に伝えろ、と言った。
ぬらりひょんは我の目の変化を見て、かすかに口の端を動かした。
「仕草で充分じゃ。猫が動けば、人間は読む。姫君などは特にな」
それは正しかった。真白は我の仕草から多くを読み取っていた。言葉がなくとも、体の向きと尾の角度と視線の先で、我は意図を伝えてきた。
「では、南の裏路地に人が増えておる。昨夜から、死の気の薄まりが消えた場所がある。火車に先行させるが、お主も土の理で北西の気を探れ。それだけ頼む」
踵を返した。砂利を踏む音がなかった。老翁の姿が、庭の影に沿って動いた。梅の木の向こうへ回り込んだ、その刹那に気配が消えた。
我は縁石に飛び上がって、南の方角へ顔を向けた。
土の理の気配を探った。体の下の地面を、指先の感覚で読むように。
北大路の染みは今朝も動いていた。しかし南に、昨日とは違う揺らぎがあった。微細だった。地の中を這う、根のような動き。まだ小さく、人間の感覚では届かないが、確かにそこにある。
ぬらりひょんの読みは正しかった。
南が動いていた。
我は尾を一度、縦に振った。誰も見ていない庭に向けて。確認の動作だった。覚えておくための、我自身への印だった。
今夜、実俊が戻ったら観測符を南に向けさせなければならない。言葉のない猫がそれをどう伝えるかは、その時に考える。姫君が間に入ってくれれば、幾らかの意図は届く。
縁側から屋敷の奥を見た。真白の読経に似た低い声が、母君の部屋の方から微かに届いていた。言霊の練習ではなく、ただの祈りだった。声に力を込めない時の、柔らかい響きだった。
その声を聞きながら、我は縁石の上に伏せた。
ぬらりひょんが言った「都に必要な理の柱の一本」という言葉が、耳の奥に残っていた。柱というのは、他の柱があってはじめて屋根を支えるものだ。一本では屋根にならない。この戦いに必要なのは、それぞれが一本として立つことだった。
梅の一輪が、朝の光の中で少し開いた。
【妖怪図鑑】
■ぬらりひょん
【分類】正体不明の妖怪(総大将格)
【危険度】★★★★☆(高)
【レア度】★★★★★(極めて稀)
【出現場所】人家、屋敷の座敷、人の多い場所
【特徴】
大きな頭と白い顎鬚を持つ老翁の姿をした妖怪。「妖怪の総大将」と称されるが、実際に他の妖怪を統率する力があるわけではなく、古くから妖怪の中でも格別の存在として扱われてきた。最大の特徴は、人の家に何の許可もなく上がり込み、家人がまるでいつもそこにいるかのように扱ってしまう点にある。誰も気に留めないうちに茶を飲み、好物を食べ、悠然と過ごして去っていく。
【得意技】
・存在感の希薄化:その場にいるのに意識されない。目が向いても「いて当然」と思わせる。
・場の把握:長く生きた妖怪特有の、気配と理の流れを読む力。数百年以上の観察眼を持つ。
・哲理的対話:人間や妖怪の本質を見抜き、核心を突く言葉を選ぶ。
【弱点】
直接的な戦闘は不得意とされる。力よりも知恵と存在感で動く。
【生態】
どこに住んでいるかは不明。現れる時は必ず人の気が薄れた瞬間を選ぶ。妖怪の中では珍しく、人間社会の変化を長期的に観察し続けている。争いより観察を好み、必要と見た時だけ動く。
【玄丸の評価】
「以前に会った時、我が対等に語れると見た妖怪の一体だ。知恵の深さは確かで、世界の理を俯瞰する目を持っている。ただし、何を目的として動くのかが最後まで読み切れない。それがこの妖の本質なのかもしれぬ」
【遭遇時の対処法】
敵対するより対話を選ぶべき相手。こちらに害意がなければ危害を加えてくることはない。ただし家に上がり込まれた場合、追い払う手段はほぼない。いつの間にか去るのを待つほかない。
【豆知識】
「ぬらりひょん」の名の語源には諸説あるが、ぬらりぬらりとつかみどころのない様子を指すとも言われる。江戸時代以降に「妖怪の親玉」として描かれることが多くなったが、その性質は脅かすものではなく、あくまで「はぐらかす」ものである。




