第百三十一話「真澄の決意」
梅の枝が揺れた。
風のせいではなかった。葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が、渡り廊下の柱から背を離した動きが、庭の冷えた空気をわずかに震わせたのだ。
我は縁石の上に伏せていた。後脚を体の下に折り込み、目だけを動かして真澄の動向を追う。彼が渡り廊下に立つ時間は、いつも理由がある。ただ佇むことで何かを量っている。今夜もそうだった。
真白は奥の間に入って久しかった。実俊は大路の向こうへ戻り、その足音も消えた。屋敷の物音は湯殿のひょうすべが立てる微かな水音だけで、あとは静止していた。
真澄がこちらへ歩いてきた。
草履が砂利を踏む音を立てなかった。半妖の血が染みている者の歩き方は、体の重さをどこかへ分散するのか、足が地を離れているようにさえ見える。それでも我には聞こえた。砂利の粒が微細に動く、理が揺れる気配として。
縁石の前で、真澄は膝を折った。
立ったまま見下ろすことをしなかった。我と同じ高さまで腰を落として、正面から目を合わせた。その目は灰がかった黒で、人の目とも妖の目とも言い難い色をしていた。
「玄丸殿」
声は低かった。夜の気配に溶けるような、それでいて確かな響きがあった。
我は動かなかった。視線だけを向けたまま、四肢を縁石の上に揃えた姿を崩さなかった。
「少し……聞いていただけますか」
問いかけではなかった。問いかけの形をした、もはや決めてある言葉だった。我にはわかった。人でも妖でもない者が、境界の上でどれほど長く量りを掛けてきたか。今夜それを口に出す気でいることが、声の底に沈んでいた。
真澄は視線を庭へ向けた。倒れたままの石燈籠が、冬枯れの地面に横たわっている。修復する者がいなかった。修復する余裕が屋敷になかった。
「我は」と真澄は言った。「葛上の血を引いて生まれました。人の母と、妖の父の間に」
知っている。以前に聞いた話ではない。もっと前から、彼の気配の奥に人ならぬ層があることを、我は察していた。
「その血は、界境を固める力を持つ。妖と人の境目を縫い合わせる、継ぎ目の糸……それが、我ら葛上の宿命」
声に感情がなかった。事実を並べる口調だった。しかしその平静さが、かえって重かった。平静に言える言葉というのは、何度も口の中で転がした末の形をしている。
「以前も申し上げた通り、血が鍵でございます。ただ……鍵というものは、差し込んで回す時に消耗するものでございます」
「この数ヶ月、幾度も自らの血を捧げようと考えぬ日はございませんでした。されど、この秘術は界境の綻びが『極点』に達し、理が剥き出しにならねば、縫い合わせる器にはなり得ぬのでございます。早すぎれば、ただ無駄に命を散らすのみ。……ようやく、その刻が満ちたのでござる」
我は耳をわずかに動かした。
真澄は気づいて、視線を我へ戻した。
「玄丸殿は、ご存知でござろう。三箇所の裂け目が塞がっていない。地の下で根が動いている。実俊殿の観測符も、晴元殿の新しい観測網も、抑えることはできても断つことはできない」
そうだ。知っている。我もまた、術を使うたびに器の縮みを感じている。真澄の言葉は他人事ではなかった。
「葛上の血を充分に使えば、裂け目を縫い合わせられます。根を断つことはできずとも、蓋をすることはできる。蓋が厚ければ、その先の戦いで間に合うだけの時は、稼いでみせる」
間が空いた。
庭に風が来た。梅の枝が揺れて、蕾の膨らみかけたものが一つ、砂利に落ちた。
「血を使い切れば、我はここにはいられなくなる。……それもまた、理でござろう」
真澄はそこで一度、目を閉じた。人の呼吸で二回分の時間があった。
「人の半分として生きるには、もとより短い命でございました。妖の半分として生きるには、もとより薄い血でございました。どちらの岸にも完全には立てない生は、然様なものだ」
我は体の重心が、前肢の方へわずかに移ったことを感じた。身を乗り出す衝動を、意識して制した。
真澄が言っていることを、我は否定できなかった。否定する言葉を持っていなかった。声がなかったというだけではなく、この話に反論の筋を見つけられなかった。彼が境界の上に立ってきた時間の長さを、我は軽く扱えなかった。
「姫君のことでございます」
唐突にそう言って、真澄は少し黙った。
「我は長く、姫君のそばで仕えてまいりました。初めてお会いした時分、姫君はまだ幼く、縁側から庭を見ては雨の音の名前を考えておいでだった。――霖と呼ぼうか、それとも滴と呼ぼうか、と」
声が少しだけ変わった。平静という鎧の下に、何か別のものが一瞬だけ滲んだ。
「姫君の笑顔というものは、見ている者の理を整えます。それが妖の血を引く我であっても、例外ではございませんでした。いや、正確に申せば」
真澄はそこで言葉を選んだ。
「妖の血を引く我だからこそ、姫君の笑顔が何であるかを過剰なほど鮮明に感じておりました。言霊感応の素質を持つ方の笑いは、周囲の気を揺らすのだ。我はそれを」
止まった。
「ただ受け取っておりました」
それが全部だった。それ以上は言わなかった。言う気がないのではなく、言い切ることがこの話の本質ではないと知っているのだろう。
我は理解した。以前に真澄が独りで収めた感情の形を、今夜初めてこちら側から見た。
「姫君の笑顔を守るために、我が命を捧げる」
静かな声だった。
誓いというより、確認だった。すでに腹の底で決めてある者が、口に出すことで決意を空気に固定する、その作業だった。
「それが葛上家の者として、この屋敷の家令として、そして……」
ほんの少しの間があった。
「姫君を想った者として、選べる、最も誠実な道だ」
我は縁石の上で、じっとしていた。動くことができなかったのではなく、この場に沈黙以外の何かを差し込む必要を感じなかった。真澄が言い終わるまで、この静けさは保たれるべきだと、我の理が告げていた。
梅の枝がまた揺れた。今度は本当に風だった。
真澄が我を見た。まっすぐに、奥まで見るように。
「玄丸殿」
我は目を逸らさなかった。
「姫君を、頼んだぞ」
武人が剣を預ける時の口調だった。あるいは親が子へ言葉を渡す時の。どちらでもあり、どちらでもなかった。それは「頼みたい」という願いではなく、「頼む」という事実の確認だった。この猫に頼む以外の選択肢が残っていないことを、真澄はとうに知っていた。
我の尾が、一度だけ先端を持ち上げた。そうするしかなかった。声もなく、言葉もなく、しかしこの気配を無言で受け流すことはできなかった。
受け取った。
それだけを伝えられれば、それで足りた。
真澄は我の尾の動きを見た。一瞬だけ、灰黒色の目に何かが通り過ぎた。安堵とも、確認とも言えた。あるいはただ、応答があったことへの静かな認識だったかもしれない。
「それで十分でございます」
真澄は立ち上がった。草履が砂利に着いた音もなく、体が垂直になった。着物の裾が冬の空気の中で揺れて、すぐ止まった。
「姫君が目覚める前に、一つ確かめておきたい場所がございます」
言いながら真澄は庭へ降りた。倒れた石燈籠の横を抜けて、梅の木の向こうへ向かった。影が地面に落ちては薄れ、植え込みの影に溶けた。
我は縁石の上から、その背を目で追った。
半妖として生きることの重さを、我は知らない。異世界の魔導王として生き、猫に落ちた我は、別の形で境界の上に立ってきたが、それと等しいとは言えなかった。等しくはなかった。しかし、重ならない部分はなかった。
どちら側にも完全には届かない。届けようとするほどに、手が伸びるほどに、差が鮮明になる。
真白を想いながらそれを口にできなかった者が、今夜静かに話を終えた。
我もまた、声を持たなかった。
梅の蕾が、風のない中で微かに揺れた。真澄の気配が消えた後も、しばらくの間、枝は揺れ続けていた。我はそれを見ていた。冬の庭に、声のないものが二つ残った夜だった。




