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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第六章:決戦前夜

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第百三十話「実俊の告白」

冬の夜は音が少ない。


虫の声もなく、風も止まり、遠い方角から水の流れる気配だけが届く。そういう静けさの中で、人の声はよく通る。


実俊さねとしが来たのは、戌の刻を少し過ぎた頃だった。


急ぎ足ではなかった。廊下に足音が生じる前から、我は気配で知っていた。その歩みは、陰陽寮おんみょうりょうから戻る時の速さと違った。どこかに寄り道でもしてきたのか、あるいは来るまでの間に何度か立ち止まったのか——迷いと決意が同居する、妙に重い足音だった。


真白ましろは主殿の端に座って、灯台の明かりの下で冊子を読んでいた。几帳の傍に丸まって、その気配を半眼で追っていた。


実俊が廊下に膝をついて、一礼した。


「夜分に失礼いたします。少しだけお時間をいただけますか」


真白は冊子を閉じて、こちらへどうぞと言った。それだけで青年は上がってきた。几帳の向こうに座り、膝に両手を置いた。その所作はいつもと変わらないが、右の拳が微かに固く閉じていた。


「実俊殿、何かありましたか」


真白が訊いた。語尾に心配の色がある。ここ数日で都の外の様子が変わっていることを、令嬢も知っている。異変の気配が増している、という陰陽師の報告は昨日もあった。今夜また来たとすれば、新しい何かがあったのだろうと令嬢は読んだはずだ。


「異変の件ではありません」と実俊は言った。「今夜は——別のことで参りました」


一拍の間があった。


半眼のまま、実俊の方を見た。


陰陽師見習いの青年は、こういう局面で顔色が変わる。普段は理を並べて淀みなく話す口が、今夜は閉じたり開いたりしている。感情と言葉が嚙み合っていない。それを我は以前にも見た。あの桜の盛りの頃——同じように言葉を探していた。


「以前、申し上げました」と実俊は言った。声を低く保とうとして、少し失敗している。「桜の季節に。姫君に、思いを。……返事は、いつでもよいと申し上げた」


真白は黙っていた。


「返事を急かすつもりは今もありません」と実俊は続けた。「ただ——今夜、もう一度だけ申し上げたかった」


冬の夜の静けさが、言葉と言葉の間に入り込んだ。


「この戦いが終わったら、答えを聞かせてください」


実俊の声は、最後の一文で初めて揺れた。揺れた、というより、積み上げた抑制の石が一つだけ外れた感じだった。


我は身じろぎしなかった。


この青年が嫌いではない。理詰めで、不器用で、真白の前でだけ理屈の鎧が薄くなる。それは誠実の一形式だと、そう認める。己の感情に名をつけて、相手に届けようとする行為が——どれだけの労力を要するか、我にはわかる。声の出ない猫に転じて、初めてわかったことだ。


令嬢はしばらく、灯台の明かりを見ていた。


我から見れば横顔だった。その顔に何が浮かんでいるか、薄暗い部屋の中では細部まで読めなかった。ただ、急かすような気配がないことはわかった。考えている、というより、何かを整理している顔だった。


やがて真白は実俊の方へ向き直り、一度だけ頷いた。


言葉はなかった。


しかし青年はその頷きで十分だったらしく、ほんの少しだけ肩が下がった。長いこと持ち続けていた何かを、ほんの少しだけ置いた人間の体の動きだった。


「ありがとうございます」と実俊は言った。「それだけで、十分です」


我は几帳の向こう側へ目を向けた。


視線の先には渡り廊下の暗がりがある。そこに気配はない。真澄ますみは今夜、どこにいるのか。屋敷の内か外か。あの男が今夜の一部始終を知っているかどうか、我には確かめる手段がない。


青年が立ち上がる気配があった。帰るつもりだろう。言うべきことは言った、という落ち着きが足音に戻っていた。


「一つ、伺ってもよいですか」


令嬢が引き止めた。陰陽師が再び膝をついた。


「先ほどの話とは、別のことで」と姫は言った。「実俊殿は——怖くはないですか。これから起きることが」


少し考えてから、答えた。


「怖い、と思えばいくらでも怖い。ですが、怖いという気持ちより先に、やるべきことが見えているうちは動けます。陰陽の理というのは、そういうものでもある」


「では、やるべきことが見えなくなったら」


「その時は——真白殿の顔を見ます。それで十分です」


令嬢は小さく笑った。声にならない笑い方だった。


「ずるい言い方ですね」と言った。


「理屈で負けた時の最後の手段です」と言い返した。今度は少し声に余裕があった。


実俊が廊下に出た。


足音が遠ざかっていく。行きよりも、帰りの方が速かった。


我は真白の方を見た。


令嬢は灯台の明かりを見ていた。手元の冊子は開かれていない。さっきまで読んでいたものが、今は全く違うものに見えているかもしれない。


我にできることは、ここにいることだけだ。


この場所で、この夜に、何かが少しだけ動いた。それが次に何を引き寄せるかは、まだわからない。ただ、動いたということは確かだ。


令嬢が我の方を見た。


何も言わなかった。しかし視線には問いが混じっていた。お前はどう思う、とでも言いたいような。


我は前脚を伸ばして、一度だけ欠伸をした。


真白は少し笑って、また灯台を見た。


冬の夜が続いていた。

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